2002年10月16日
ザスパ草津への思い 奥野僚右 ~「考える人」2002年秋号〜
~「考える人」2002年秋号(新潮社)より転載~
奥野僚右
ザスパ草津 選手兼監督
サンフレッチェ広島での契約が終わって、今年の一月までに他から声がかからなかったら、現役引退後の自分の人生のセカンドキャリアを考えなければと思っていました。選手時代に何度となく助けられた東洋医学の資格をとるとか、子どもたちにサッカーを教えたいとか、具体的なイメージはあったんです。ところが突然「ザスパ草津」の監督にならないかと誘いを受けた。監督になるなんて考えもしなかったので驚きでした。それからは毎晩、子どもたちが寝静まってから妻と話し合いました。そして、まずは草津を見てこよう、それから考えよう、ということになったんです。
遠かったですね草津は。高速道路を降りて行けども行けどもたどり着かない。山道をくねくねのぼって標高千二百メートルの草津エリアにやっと入ったら、今度は雪が積もってる。スタッドレスタイヤをはいてても町の坂道でスリップしちゃって先に進めないし、グラウンドがあるはずの場所もいちめん真っ白。グラウンド本当にあるの? どうやってサッカーやるんだ? こりゃ無理だって思いました。 そうしたら突然携帯電話が鳴ったんです。「ザスパ草津」のフロントの人でした。「なんだ、こっちに来てるのか!」って驚かれちゃって。草津に来るなんて知らせてませんでしたから、脈ありと思ったみたいで俄然勢いづいちゃった(笑)。
それからは毎日「決心ついたか?」の電話攻勢。でも実は、草津温泉の旅館やお店で選手が働く地域密着型の理念には、心動かされるところがあったんです。Jリーグ時代に選手会の仕事をしていた時に一番深刻だったのは、辞めていく選手のセカンドキャリアの問題でした。高校卒業と同時にJリーグ入りしても、一、二年で芽が出なければ「はい、さようなら」の世界です。年間で百数十人が戦力外通告を受けます。ずっとサッカーだけやってきた子たちだから、大学に入り直すのはいいほうで、フリーターになったり親のすねかじりだったり、自立できないのが三分の二ぐらいいる。新しい仕事を見つけて違う自分を見つける機会も気持ちもない。草津のやり方なら、社会人としての仕事も経験できるし、それが町の名誉を担うことにもなる。社会人リーグだと普通は週に二、三回、夜に練習するのがやっとです。毎日昼間に二時間練習できるのは、地元の理解と協力があってこそ初めて可能になる環境です。社会人としての勉強をしながら自分の一番やりたいサッカーを毎日できる。これは大きいと思っていました。 若い選手を見てると、要求されたプレーをこなすだけの受け身の選手が多い。自分で判断して、考え、咄嗟に動けないと駄目なんです。行動するための想像力がなけりゃ絶対にいい選手にはなれない。「ザスパ草津」で社会性も想像力も身につけて、やがてはJリーグに引き抜かれる選手が出てきてほしいと思ってます。他の選手の目標、希望になってほしい。 仕事をしながらの練習は精神的にも肉体的にも負担がないといえば嘘になります。でも最短四年でJ2にあがるという目標を掲げて、次々とあらわれるハードルを一緒に乗りこえよう、という毎日です。
うれしかったのは、六月の練習試合で予想も期待も大きく裏切って、2対0で柏レイソルを破ったことですね。チームの秘めている大きな可能性がはっきりと見えた瞬間でした。何が足りないかって聞かれたら、何もかも足らない(笑)。それでも、小さな町から全国に向けて発信できるものがあると確信しています。
Okuno Ryosuke
1968年京都府生まれ。
早稲田大学時代はインカレで優勝を経験。全日本大学選抜に選出された。
卒業後、鹿島アントラーズに入団し、DFとして活躍、
97年Jリーグ優秀選手賞、98年オールスター戦に選出された。
2000年に川崎フロンターレに移籍、翌年サンフレッチェ広島に移籍。
9年間の現役生活では鹿島アントラーズ選手会長、Jリーグ選手協会副会長なども務めた。
02年からザスパ草津の選手兼監督に就任。
ユニクロからはザスパ草津のユニフォームの提供を受けている。
「考える人」2002年秋号(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい