プレスリリース

2002年10月16日

スペシャルオリンピックスへの思い 細川佳代子 ~「考える人」2002年秋号〜

20021016_2.jpg~「考える人」2002年秋号(新潮社)より転載~


細川佳代子

特定非営利活動法人

スペシャルオリンピックス日本理事長


一九八三年、自民党の議員だった夫が熊本県知事になると、私は自動的に県連の婦人部長になりました。四〇歳だった私にとっては、婦人部といってもうるさ型の女性幹部がズラッと並び選挙の時だけ盛り上がる恐ろしいサロンでした。これじゃあ駄目だと思い、組織と人事をご破算にして、社会貢献の団体として再出発させました。私の両親は常に明るく前向きで、愚痴らず公に尽くす人だったので、社会のなかで自分が生かされているということを幼い頃から体で学びました。だから、県連の婦人部を政治に目覚める女性のための研修と社会貢献が主軸の団体に変えるのは当然のことだったのです。もちろん抵抗はありました。でも私は抵抗があればあるほど燃える(笑)。抵抗とは過去にしがみつくこと。しがみついている過去は既成概念に囚われて進歩が無い状態です。変えようと思ったら、理念と志さえあれば、あとは踏み出す勇気だけです。知的発達障害者のスポーツ活動を支えるスペシャルオリンピックスを知ったのは九一年でした。地元の熊本日日新聞にその世界大会で銀メダルを獲得した少女の記事が出ていたんです。強い関心を持ったので当時の会長を訪ねてご指導を願いましたら、日本支部は理事が全員辞めた直後で危機的状況にあることがわかった。なんとかしたいと思いました。 まずは、アメリカでこの活動に参加している日本人の留学生を熊本に招き、スペシャルオリンピックスの説明会を開くことにしました。活動資金をつくるためにも県立劇場を借りて入場料五百円で千人集めようとしたら、行政の指導は「こんな地味な活動の説明会に入場料を取るのは無茶だし千人も集まるわけはない」という忠告でした。それなら絶対成功させてやる、と火がついてフル回転、その結果千人以上に来ていただきました。アスリート(選手)もコーチも何十人と希望者が現れた。出席した国際本部のアジア局長が会の熱心な動きに感動して、エントリーが終わっていた冬季オーストリア世界大会に特別枠で二名選手を引き受けようと申し出てくれました。現地で体験したスペシャルオリンピックスの大会は本当に素晴らしかった。それ以来、私は寝ても覚めてもスペシャルオリンピックスです。

日本人はまだ義務感でボランティアをやる人が多い。いつか暇とゆとりができたらと思っていてなかなか行動を起こさない。行動する前に、ああすればこうなると頭でっかちに議論ばかりして足が動かない。始めると逆に大真面目、責任感と完璧主義でくたびれてしまう。ボランティア活動を長く続けるための必要条件は楽しいこと、感動があること、連帯感が生み出されることです。つまり人のためではなく、自分のためと納得できることでしょう。 これまでの障害者のための活動は行政が取り囲む福祉社会の中で行われていました。障害者のことは行政やプロにまかせておけばいいというのが一般市民の感覚で、障害者福祉社会と一般健常者の社会とが分離しています。ですから、理解不足から偏見や差別が満ち溢れている。戦後五十数年間、経済第一、効率第一の学歴社会で生じた偏った価値観では、障害者は「かわいそう」「運が悪い」で片付けられてしまう。障害者の自立、社会参加といくら親や先生が頑張っても、地域社会が変らない限り絵にかいた餅です。彼らが一人の人間として受け入れられ認められなければ、本当の社会参加はありません。彼らと親しく交流を続けることで私たちも彼らから多くのことを学び、心が和み、価値基準まで変わっていきます。彼らは社会に必要な存在なんです。

二〇〇五年に日本で初めてのスペシャルオリンピックス冬季世界大会が開かれます。一人でも多くの人が行動を起こし、参加してほしいと願っています。

Hosokawa Kayoko

神奈川県藤沢市出身。
大学卒業後、日本企業の欧州駐在員としてドイツ、スウェーデン、フランス、イギリスに在住。
71年細川護煕(93年~94年内閣総理大臣)と結婚。
一男二女を育てる。94年より「スペシャルオリンピックス日本」会長を務め、
現在「特定非営利活動法人スペシャルオリンピックス日本」理事長、
「世界の子どもにワクチンを」日本委員会代表も務める。

「考える人」2002年秋号(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。