2003年04月04日
一本の線から生まれる。 日比野克彦 ~「考える人」2003年春号〜
~「考える人」2003年春号(新潮社)より転載~
日比野克彦(アーティスト)
役者に動きをつける名監督。
キース・ヘリングの凄さはそこにある。
自分の中から何かを引き出して、展開してくれる人と出会った。
僕のいた芸大は基本的にはアカデミックな場所だったし、二年間は日本画や塑像などの基礎的なこともやらされます。でもデザイン科にいた連中は、既成の枠に納まらずに自分をどう出せるかを本気で考えようとする空気があった。そもそも芸大は「そこから先は自分でやれ」というところでした。
じゃあ自分の作品を世の中にどう出せばいいのか。若手のモダンアート展に一度は出品してみたこともあります。でも、やっぱり額縁にはまった絵の展覧会だったし、なんか違うなと思った。
その頃は「ブルータス」や「宝島」、「ビックリハウス」といった雑誌に勢いがあって、八〇年にはパルコが主催する「日本グラフィック展」という公募展も始まりました。そこには自分が行きたい方向を照らし出してくれる匂いのようなものを感じたんですね。それで応募してみたら、大賞を受賞したんです。
大賞をとったからと言って、何をどう切り開いていけばいいのか、自分ひとりではなかなか見えてこない。でも、アートディレクターの浅葉克己さんや「日本グラフィック展」のプロデューサーだった榎本了壱さん、それからポスターの仕事で一緒に組ませてもらってADC賞の最高賞を受賞することになったサイトウマコトさん。彼らに出会うことができたんです。自分の中から何かを引き出して、展開してくれる人に僕は恵まれていました。ひとりでできることはそんなに大したことじゃない。誰とタッグを組めるかというのが大きかった。
「ニューヨークの馬鹿野郎」、そして、キース・へリングに会う。
まだその頃はイラストレーションとアートの垣根は確実にありました。イラストレーションは商業の側から要請されるさし絵として位置付けられていて、アートにはなりえないという雰囲気だった。そういう垣根をぶっ壊したいなあと僕は思っていたんです。そこへ登場してきたのがキース・ヘリングです。
キースと僕は同い年だし、なんて言うか「やっぱり来たか!」という感じでしたね。アンディ・ウォーホールの次は誰が何を持って来るんだろうって、凄く気になっていたし、それに登場のしかたもグラフィティ・アートというのがインパクトありました。ギャラリーのホワイト・キューブの中で額縁付の絵を発表するんじゃない。地下鉄のプラットフォームに描いた落書きから始まって、あっという間にスターになってゆく過程もいかにもニューヨークらしかった。
キース・ヘリングに初めて会ったのは彼がすでに大スターになっていた一九八四年です。ニューヨークに行ったその時の僕は、いろんなギャラリーに作品を持ち込んでディレクターに会おうとしていました。これがなかなか会ってもらえない。現地に行けば即いろんな人に会えて、一気にガーッと行くかと思っていたら、人には会えないわ見てもくれないわで「ニューヨークの馬鹿野郎」(笑)という感じになりかかってました。そうしたら、たまたまトニー・シャフラジ・ギャラリーでケニー・シャーフのオープニング・パーティがあったんです。トニー・シャフラジは飛ぶ鳥を落とす勢いのギャラリーで、キースとかバスキアとかグラフィティ・アートの若手を発掘し、育てていました。そこでやっとトニー・シャフラジと話す機会ができて、自分の作品を見てもらえることになった。
作品を見せたら興味を持ってくれて、「明日バスキアがギャラリーに来るから日比野も来い」って呼んでくれたんです。翌日、昼間からシャンパンを飲みながらバスキアとランチをとりました。お互いの作品を見せ合って話しているうちに「日比野の絵はキースにも見せるといいよ」とバスキアが言ってくれて、キースのところにその場で電話まで入れてくれたんです。
キースのアトリエはギャラリーから歩いて五分ぐらいのところにありました。アシスタントもいる凄く立派なところなんですよ。ニューヨークってアートがきちんとビジネスになっているんだなあ、とつくづく思いましたね。日本にはアートマーケットがほとんどないんです。もちろん老舗の画廊が日本画家の絵を売ってはいるけれど、若手の作品を探し出してきてアーティストを育てて売り出すというのはまずない。僕の作品はポスターになるとか、コマーシャルで使われるとか、本の装幀になるとかはあっても、作品じたいが売られるのは今でもそんなに多くはないですから。
でもキースは作品が売れると同時に、すべての人たちに受け入れられるメッセージ性もあったから、瞬く間にユニバーサルなアイコンになっていった。バッジにもなったし、街の壁一面に彼の作品が描かれたりもして、その時代の記号的存在になったわけです。
役者に動きをつける名監督。日本人の感覚にはない丸み、立体感。
キースの絵の魅力はね、彼の描く線じたいにあるんじゃない、と僕は思ってます。それは、モチーフや、シチュエーションの魅力なんですよ。つまり映画監督でいえば、役者に動きをつけるのが凄くうまいタイプの監督ですね。ちょっとした仕草をうまく演出するだけで、そのシーンの良し悪しが決まることがあるじゃないですか。キースの凄さはそこにあると思うんです。
彼の描く線は自覚的に訓練した成果でも何でもなくて、天然のものだと思います。ただね、顔の丸みの描き方、立体感の出し方が微妙にうまいんですよ。目、鼻、口が描いてなくても、ちょっとした線で顔の向きがわかるわけ。これはね、僕の勝手な憶測に過ぎないんだけど、あのうまさには、ちょっとディズニー入ってると睨んでいるんですよ。ミッキーマウスにも通じる丸み、立体感。
日本人の僕たちには、ああいう立体感は出そうとしてもなかなか出せないものなんです。浮世絵のような脈々と引き継がれた平面の感覚が、日本人には抜きがたく刷り込まれていて、あの立体感や丸みは僕にも出せない。
キースの絵があれほど人気が出たのは、偶然そうなったと見る人もいるかもしれないけど、僕は全然そう思っていないですね。キースは自分をクールに分析してプロデュースできる能力があったと思う。エイズになって、あと二、三年の命だとわかってもキースは最後の最後まで焦らず自分の仕事をまっとうしたでしょう。かたやバスキアはお金がいっぱい入ったせいで、自分に溺れ、クスリにも溺れ、最後は絵が描けない状態にまで陥ってしまった。僕はバスキアが好きだったからそのことが凄く悔しいけど、最後のほうはバスキア自身が何が何だかわけがわからない状態だったでしょう。
キースはエイズで死ぬと自覚した後も、幼稚園で子どもたちとのワークショップをやっていました。キースの作品はアートとして正当に評価されないところもあって、知識だとか権威だとか歴史というような裏付けがないと相手にしない人もいるわけです。だから、彼が最後に幼稚園児たちと一緒に絵を描いたというのは、そういったものに対する彼なりの抵抗であり、意思表示だったんじゃないかと思いますね。自暴自棄にならず、自分の世界を広げる冷静なプロデューサー的判断があった上でのことだと思う。
送り手も畑を耕し、種を蒔かねばならない。
最近の僕の仕事も、気がついてみればアトリエから外に出たワークショップが多くなってきたんです。年間で五十も六十もある。テーマを決めて、子どもか大人かを問わない参加者全員で考えながら、同じ時間を過ごして何かを作り上げていく。完成しなくてもそれはそれでいい、というワークショップ。
何でワークショップをやっているのかと考えると、やっぱり送り手と受け手の問題なんです。僕はデザインに軸足を置いたメディアの中で動き出した人間だから、芸術表現として自己完結するのではなく、自分の表現の受け手である観客、視聴者、ユーザーが何を欲しているのか、どうであれば喜んでくれるのかをやっぱり考えます。でも受け手の顔色だけ窺っているだけだと自分が無くなっちゃいますよね。だから、受け手に対してこちらから出かけていって種を蒔くというか、種を蒔くための畑を一緒に耕すというか、だんだんこっち側へ来てほしい、こっちは面白いよ、と送り手としてのカードを切りたいんですね。
じゃあ僕がどんなカードを切っているのかと言えば、手作り感覚の面白さを受け手に経験してもらいたいということです。人肌を感じるというか、フリーハンドの表現の魅力を提案したいんですよ。デジタルやITの時代には逆行する提案かもしれない。でもいまそれを必要としている人たちはけっこういるんじゃないか、という手ごたえをワークショップを重ねる中でずっと感じてきました。
もしキースが今生きていたら、幼稚園児とのワークショップの延長線上で、パブリック・スペースで不特定多数の人たちに自分の作品を見てもらう方法論、スタイルをさらに磨いていたんじゃないかと思います。そう思ってみると、キースがやりかけていたスタイル、表現の社会性とでもいうべきものに、僕もいま強く惹かれているのかもしれません。
Q.日比野さんは、お洒落やファッションをどう考えていますか?
芸大時代の担当教官は福田繁雄さんだったんですが、一番教わったことっていうのは福田さんのファッションなんです。福田さんはだまし絵の人だから、たとえばTシャツならネクタイが描かれてあるものを着たり、ニットのセーターを着てくると胸のあたりにバラの花が一輪挿してあるようにデザインされていたり、いつも何かメッセージ性のあるものを着てたんですよ。他の先生は普通のジャケットだったり、作業服だったりするんだけど、福田さんだけが浮いていた(笑)。服装というのはただのお洒落じゃなくて、その人の生き方や考え方まで表現できる道具でもあるんだと気づきましたね。
演劇の世界での仕事も多いんですが、演出家、役者、照明、音響、舞台美術、衣装、といろいろ役割がありますよね、僕が舞台のセットをデザインしたとして、最初はその舞台が目に入る。でも芝居が進むにつれて、最終的には衣装が勝つんですよ。最初は悪者で出てきた人が、最終的にはいい人に変わるとするでしょ、そうすると衣装まで違って見えてくるんです。芝居がはねた後、「いいセットだったね」と感想を言う人がいたとすれば、その芝居は失敗なんです。
それぐらい、人が着るものってメッセージを持ちます。初めての人に会うときにはどういう服を着ようかって考えますよ。クライアントに対してプレゼンテーションしようというときに、相手の理解を得るのが難しそうな場合には、会議室のドアを開けるところから勝負だから、色彩もデザインも、自分がこういう考えを持ってここにお邪魔しています、という名刺がわりとして意識したものを選んで着ていきます。
仕事だろうがプライヴェートだろうがその人が着る服というのは、相手に対して意識する以上のメッセージが込められると思いますね。
HibinoKatsuhiko
1958年岐阜市生まれ
東京芸術大学大学院美術研究科修士課程デザイン専攻修了。95年より東京芸術大学美術学部助教授。82年に第3回日本グラフィック展大賞、83年に第30回ADC賞最高賞、95年ベニスビエンナーレ参加、99年度毎日デザイン賞グランプリを受賞。デザイン、絵画、舞台美術、映像、パブリックアート、など、多岐にわたり活動。近年は各地で一般参加者とその地域の特性を生かしたワークショップを多く行っている。
「考える人」2003年春号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい