2003年10月07日
子どもたちの未来とサッカーの未来を応援します。 北澤豪 ~「考える人」2003年秋号〜
~「考える人」2003年秋号(新潮社)より転載~
北澤豪(Kitazawa Tsuyoshi)
日本サッカー協会アンバサダー
環境が僕に与えてくれたもの
僕は東京の郊外、町田市の生まれです。町田は新しい世代が移り住んで来る新興住宅地でしたから、みんなで街づくりを考えようという雰囲気がありました。若いお父さんお母さん、子どもたちが多かったんですね。そんな背景があったので、野球やサッカーがすごく盛んだったんです。東京の都心よりスポーツをする場所にも恵まれていたと思いますしね。
当時の小学生は、たぶん部活動が始まる三年生や四年生ぐらいから本格的にサッカーを始めるのがパターンだったと思います。でも僕は町田に住んでいたおかげで一年生の時からクラブに入ってサッカーを始めることになり、すぐに夢中になりました。
町田では一年間で八つもサッカー大会が開かれるんです。全国少年サッカー大会だとか、町田市のリーグ戦とか、関東大会とか。おのずと組織もしっかりとしてきますし、子どもたちのなかからもっとうまくなりたいという意欲が自然に湧いてくる。そんな環境や雰囲気が整っていたんですね。
小学校の六年間サッカーをやって、中学校に入るときにはさらに上を目指したいと思い、読売のジュニアユースに入りました。もちろん自分が選んだ道でしたけど、やっぱり地域の影響力というのは大きいと思いますね。小学生の低学年ぐらいだとまだ自分で何かを探し出すというのは難しいし、周囲の環境しだいで興味の対象が変わってきます。意欲の持ち方だって違ってくるはずですからね。
偶然といえば偶然の出会い人や環境に恩返しをしたい
Jリーグのヴェルディ時代も町田にはよく行きましたね。小学校時代のサッカー部の恩師から電話があって「北澤君、ちょっと来てくれないかな?」と誘われるんです。もちろん喜んで出かけました。先生だって片手間の趣味という感じじゃなく、心底サッカーが好きで、圧倒的な熱意と情熱で子どもたちを教えています。昔と変わらないそんな先生に声をかけてもらえるのが本当にうれしいんですね。
地域のサッカースクールのゲストで小学生たちと一緒にサッカーをしていると、自分が小学生だった頃のことを思い出します。僕の場合は、人間形成の根本にあるものはサッカーがつくってくれたんですね。引退する間際になるまでは、そんなことをあまり意識したことはありませんでしたけど、移り行く年齢のなかで、次第にそんな思いに行き当たるようにもなりました。楽しくサッカーをやっている彼らの姿と、当時の小さい自分の姿が重なって見えてきたりもします。
町田で生まれ育ちサッカーに出会ったという、偶然といえば偶然のきっかけが僕にとっては大きかった。そんな僕が子どもたちと一緒になってサッカーをやることによって、もし彼らのなかに何かを残していくことになれば、僕という人間をつくってくれた人や環境に対する恩返しになるんじゃないかと思っています。
内戦の地雷で足を失ったカンボジアの子どもとサッカーを
二〇〇一年の一月に、国際支援財団からお誘いをいただいて、カンボジアを訪問しました。七〇年代後半、カンボジアのポル・ポト政権は約二百万人もの国民を虐殺しました。内戦の地雷の未処理問題も解決していない。人々のあいだにはどこか悲愴感のようなものが漂っていたんですね。
僕は国際支援財団が創立した小学校の開校式に出席しました。地雷で足を失った子どもたちもたくさんいます。日本から持って行ったサッカーボールやヴェルディのユニフォームをプレゼントして、それから今度はグラウンドで一緒にサッカーです。グラウンドといってもデコボコだらけですし、彼らにとってはサッカーなんて初めてみたいなものだったから、ボールを蹴るのすらおぼつかない。だけど子どもたちは積極的です。地雷で足を失った子だって「サッカーをやりたい」と言うんです。ボールで遊び始めたら目が輝いてくるし、はじけるような笑顔だって出てきます。
サッカーというスポーツの中には助け合いの精神があります。カンボジアの子どもたちがこれからサッカーを楽しむことによって、支え合いの精神を学んでくれたら、それは国の復興にもつながるんじゃないか。その時、僕はそう感じました。
ちょうど二年後の今年、またカンボジアを訪ねました。驚いたことに国の雰囲気が一変していました。街全体が賑やかになり、人々にも活気が溢れていて、生活もずっと豊かになりつつあるようでした。同じ小学校に行くとみんな僕のことを覚えてくれていて、本当に喜んでくれました。二年前の同じボールでさっそく一緒にサッカーをやってみたら、彼らのサッカーはびっくりするほどうまくなっていたんです。もっともっとうまくなりたいと思っていて、フェイントはどうやるのか、シュートの練習を見てほしい、と大変な向上心なんですね。とても時間は足りませんでしたけど、短いあいだでも彼らと心が通じ合ったと思いますし、彼らもきっと得るものがあったはずだと思います。
ボールを追いかける子どもたちの姿を見ていると、熱い気持ちになります。道具やグラウンドといったものがいいに越したことはないけど、たとえそういうものが立派じゃなくても、サッカーが子どもたちに与えてくれる喜びは同じなんだと思いました。
サッカーをする喜びという忘れかけた感覚を思い出す
好きで好きでたまらなくてやっていたサッカーなのに、それが職業になると、いつしか仕事、仕事になってしまって行き詰まることがあります。カンボジアの子どもたちのサッカーを見ていたら、喜びを感じながらサッカーをやるのが原点じゃないかと、自分を取り戻すような気持ちになりました。
それに、生きて行くにはどうしたらいいか、とか、自分が求めるものを探すにはどうすればいいのか、という「生きることの勘」のようなものがカンボジアの子どもたちはとても鋭いんですね。その感覚は、物質的に恵まれすぎた世界にいると鈍くなるんじゃないか。何かが欠けていたり、足らなかったりする世界にいるほうが、生きる技術、生きて行く原動力に恵まれるのかもしれない。そうも思いました。
もちろん彼らがさらに上を目指して、本気でサッカーをやっていこうということになったら、グラウンドにしても指導にしてももっと環境を整えていかなければならないと思います。そういう点では環境に恵まれないことの良さと悪さはついてまわるのですけれど、でも僕はカンボジアの子どもたちと触れることによって、サッカーをする喜びという忘れかけた感覚を思い出しました。そして、これから自分がサッカーというフィールドで何ができるのだろう、と考え始めるきっかけにもなりました。
引退しても悔いはないまだやるべきことがある
カンボジアから帰国した直後に、僕は引退する決意をしました。右膝の怪我が完治しなかったこともあり、百パーセントの状態ではピッチに立てなくなったと判断したからです。正直言って、引退を考え始めた当初は自分のサッカー人生が終わって行くような気分もありました。でも、やるべきことはやったし、自分のサッカー人生に悔いを残しているかといえば、それはありません。本当に充実した時間を過ごせたと思います。
この次のステージで、サッカーとどう関わればいいのかと考えながら自分を見つめ直してみると、やるべきこと、やりたいことがいっぱいありました。カンボジアでの出会いは、僕のなかに新しい光をあててくれたように思います。
現役引退は僕のサッカー人生の終わりなんかじゃなくて、新しいサッカー人生が始まることなんだ-そう思えるようになると、目の前がパーッと開けて行ったんですね。サッカーをピッチの外側から見つめ直して、いろんなことを発見していきたいと思いますし、まずは子どもたちにサッカーの素晴らしさ、楽しさを同じ目の高さで教えてあげることができたらと思います。
今回、日本サッカー協会から与えられた「JFAアンバサダー」という新しい役割は、そんな僕の気持ちが叶うとても有り難いお話でした。
子どもたちには僕のプレーを見てもらうことでも伝わるものがあります。言葉で伝えることもできるでしょう。それより何よりも子どもたちと一緒にやること自体が、彼らと僕の間をとても近いものに変えてくれると感じます。僕自身も子どもたちから何かを受け取って何かが変わっていくんです。
きちんとほめると子どもたちはいい笑顔になる
僕も二人の息子の父親なので、ルールを守るということについては厳しくする必要はあると考えています。でもほめることも大事ですね。ちょっとしたプレーを見逃さずにきちんとほめると、子どもたちの顔がいい笑顔になるし、ほぐれてくるんです。最初はお互いに照れているような感じだったのが、ぐっと距離が近くなる。そうなってくれば、お互いのやりとりが締まってくるし、伝わりやすくなるし、子どもたちの吸収するスピードとか深さが違ってくるんです。叱ることとほめることのメリハリが必要ですね。
僕が小学校の一年生でサッカーに出会い、夢中になっていったように今の子どもたちにもサッカーと出会ってほしい。そしてサッカーの素晴らしさを体験しながら、人間としても成長していってほしい。自分がその手伝いができることに大きな喜びを感じています。
カンボジアの子どもたちとの出会いがきっかけになって、もっと永続的な関わり方ができないかと考えるうちに、地雷や貧困に苦しむ世界の子どもたちを支援するための「THE FOOT」というNGOもスタートさせました。カンボジアの小学校の校長先生とは、サッカーチームを作る相談をしてきましたし、子どもたちとはまた必ず来るからね、と約束をして帰ってきました。
やることがまだまだいっぱいあって、今そのことにワクワクしています。サッカーと関わってやってきた僕の人生は、まだまだ途上にあります。
Kitazawa Tsuyoshi
1968年東京生まれ。中学時代から読売ユースに入り、高校卒業後に本田技研に入団。91年に日本サッカーリーグ得点王。同年、読売クラブ(現東京ヴェルディ)に移籍し97年には天皇杯優勝。W杯フランス大会予選で活躍するも本大会代表メンバーには選ばれなかった。99年ヴェルディ川崎の主将に。今年現役を引退し、JFAアンバサダーを務める。
JFAKids' Programme
ユニクロは、日本サッカー協会の「JFAキッズプログラム」の公式パートナーとして様々な支援を始めています。去る6月に行われたフェスティバル「ユニクロサッカーキッズ!in福岡ドーム」では、お子様用、スタッフ用、審判用のユニフォームを提供するなど、各種運営サポートも行いました。これらのサポートを通じて、日頃からユニクロをご愛顧いただいているお客様に、ご家族やお友達と一緒にスポーツする、ふれあいと絆作りの場を提供し、スポーツをすることと同様にカジュアルウエアを着ることを、より身近なこととして感じていただきたいと考えています。
「考える人」2003年秋号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい