プレスリリース

2006年01月09日

できることから少しずつ始めています。ユニクロの緊急災害支援活動 ~「考える人」2006年冬号~

~「考える人」2006年冬号(新潮社)より転載~

互いに支えあう気持ちを確実に現地に届けます

パキスタン地震の被災地へ

木山 啓子 特定非営利活動法人ジェン(JEN)理事・事務局長

20060110_6.jpg パキスタン北東部を大地震が襲ったのは十月八日。その日のうちに出動を決定し、アフガニスタン・カブール事務所の現地スタッフが被災地に入ったのを先頭に、翌日には東京からのスタッフも加わり、支援活動を開始しました。

 刻々と変化する現地の状況と、何が必要とされているのかを見極めながら、私たちはまず、支援団体が入っていない場所を探します。第一陣がこうして探し出したのが、アザド・ジャム・カシミール州のバーグ地区。メディアが大きく報じ、支援団体も続々と集まる大都市とは違い、まさに支援から取り残された地域でした。すぐ先発隊がバーグに入るとともに、十月下旬、私も続いて現地に向かいました。

 首都イスラマバードから車で約六時間。山の斜面に家屋が点在するのどかな山間の村々は、遠目にはひっそりと静かなたたずまいに見えます。しかし近寄って見れば、すべてが跡形もなく倒壊していました。泥で固めた石の壁が壊れ、雨漏りのたびに泥を塗り重ねていくという、厚く重い屋根が崩れ落ちてしまっていました。いつもはみんなしてそこに上がり、夕陽を眺めながらお茶を飲むテラスでもあった屋根です。それが、家財道具も衣類も全部、この土の屋根の下に埋ずもれてしまったのです。

「熱いハートとクールな頭」が私たちの支援の基本姿勢です。主体は現地の方々。 自立の努力を後押しするのが私たちJENです。ハートが冷めていては何もできませんが、感情的になり、あれもこれもやり過ぎると独り立ちしようとするやる気を削いでしまいます。そうした「弊害のある支援」にならないためにも、頭は冷静にし、適度な距離を保つようにしているのです。とはいえ、心配でたまらない状況でした。

 とにかく寒いのです。日中でさえ日陰は手がかじかむほど冷たく、サーッと暗くなったかと思うと木枯らしがビュービュー吹きつける。しかも被災者が暮らすのは、あり合わせの布を木の棒に張り、端を結んだだけのテントです。あまりの寒さに夜中に何度も起き、火を熾し、ちょっと温もってはまた眠る夜が続いていました。みんな風邪をひいていて、医療支援の薬をいくらもらっても、これでは治りようがない。肺炎でバタバタと倒れてしまいます。

 一刻も早くテントと毛布と暖かい衣類が必要です。本当に厳しい冬が山の上からやって来ます。

ユニクロ提供の冬物衣料一万三千点をバーグへ

 まず、お配りするのはカラチで調達したテントと毛布、水タンクと石鹸、キッチンセット。支援物資は基本的に現地調達です。輸送費も輸送時間もかけていられないことに加え、現地にお金を落とすことで被害を受けた国の経済活動の一助に、という判断でもあります。続いて、ユニクロさんから提供していただいた冬物衣料約一万三千点。

 ユニクロさんから緊急支援のご連絡を頂いたのは十月十一日。地震が八日の土曜日です。九日、十日と連休で、明けたと同時に「社内決定しました」と。二〇〇一年、アフガニスタン難民への支援としてエアテックジャケットを提供していただいたときもそうでしたが、本当に対応が早いんですね。種類やサイズもいろいろ揃えていただけるのがありがたい。これで男性用・女性用、大人用・子供用など、ファミリーパックにして家族に一袋ずつお渡しすることができます。

 着替えがほとんど埋ってしまっていて、洗濯もできないため、汚れが目立たない暗い色のものをとお願いし、空輸の具体的な話を進めました。実質物量で四トンともなればユニクロさんの輸送費の負担も相当になります。関係省庁に交渉し、パキスタン航空のご協力も得、特別レートで無事、イスラマバードに到着。そこからすぐバーグへ。ここまではもちろん、現地での配布も私たちの腕の見せどころです。

20060110_7.jpgパキスタン地震でもっとも大きな被害を受けたカシミール地方。JENが緊急支援活動を行ったバーグ地区は、カシミール地方の中心都市ムザファラバードから南に約50km。家屋は倒壊し、道路網も寸断。孤立状態が続いていた。

よい支援のために、山また山を歩き続ける

 配布についてはリスト作成という方式をとっています。村のリーダーとおぼしき人に名簿を出してもらい、家屋の倒壊が比較的少ない家やすでに支援物資をもらった人を除外する。本当に必要な人だけを厳選し、本人かどうかも、身分証明書をもとに確認するのです。一ヶ村二〇軒くらいで二ヶ村回るのに毎日四~五時間、ひたすら山の中を歩く。地図上で、次の村へは二キロくらいと思って行くと、高低差二千メートルだったり。昔、等高線のある地図なんて誰が使うんだろうと思っていましたが、こんなときに必要だったんですね(笑)。

「重いものを持って帰るのが登り道だときつい。上で渡してくれれば、七〇キロのテントも毛布も水タンクもみんな一人で担いで下って帰れるから」という村のリーダーの要望により、配布も山の上です。このように、自分の足で歩き、現地の方に話を聞かなければわからないことがたくさんあります。もちろん配布場所は必ず下見し、トラックが四台停まれるほどの広さがあるか、よその人が入ってこないか、などを確認して、村の人が安心して受け取れる場所を設定しました。

20060110_8.jpg 大量の衣類が引き取り手のないまま放置されているのを報道でご覧になったことはありませんか? あれは配り方が悪いのです。ただ渡せばいいとばかりにバラまく。配布の経験がない人たちが、放り投げるようにして配ったり、ただ道端に置いて人々が取ってゆくのに任せたりする。支援団体によっては、自分たちの配りやすさを優先して後先考えずに配ってしまう、そうしたことの結果です。

 必要とされる支援を、必要とされる地域と人に確実に届ける。配布のしかたもひとつの技術です。私たちJENの誰もが、そこは職人気質、プロの自負を持っているつもりです。

温かいまなざしと愛情を向けてくれる人々がいる

 私がJENの活動に携わって十一年になります。別に立派な志があったわけではありません(笑)。ただ一生懸命やってきただけです。被災者や難民の方々のため、とは思っていませんし、そんなのは好きではありません。もし私が逆の立場なら、そんな自己犠牲を払われたら重荷です。ではなぜ国際支援なのかといえば、楽しいから。誰かが暮らしを立て直す、そのお役に立てるのが楽しい、人との出会いとつながりが楽しい。

 パキスタンでもたくさんの出会いがありました。ある村を調査のために訪れたときのことです。踏み分け道さえないような急斜面を、数十分下ったところに、その村はありました。日頃から運動不足の私は、下りの道を降りるだけで体中がぽかぽかになっていました。この地域ではイスラム教の影響が強く、ふだん女性はあまり表に出てきません。でも珍しく女性が男性に混じって、崩れた屋根の上にたたずんでいたので、思わず挨拶のために握手をしました。彼女は長いこと私の手を離しませんでした。

 周りに集まった人々から事情聴取をしていると、彼女がまた私に近づいてきました。崩れ残った土台に腰掛けている私のすぐ隣に座って、何度も握手をしようとするのです。手を離しても、すぐにまた握ろうとします。いぶかる私に向かって、彼女がはにかみながら身振りで伝えたのは、「寒いから、あなたの暖かい手を握っていたい」ということ。冬の上着も貴金属も、すべて崩れた家の中に埋まってしまった、寒くて仕方がないから、あなたの手を握って暖まりたいと。言葉が一言もわからなくても、通じあえることがある。私たちは、手を握りあって、しばらくそこにすわっていました。

 等しく尊い一人の人間同士。そのことをもっともっと知ってほしい。そして、互いに支えあう支援を楽しんでいただきたい。そう願っています。

 いま、パキスタンは厳しい冬のさなかにあります。冬を無事乗り切り、自力で家を再建するところまで私たちも支援する予定ですし、学校や病院再建のプロジェクトも必要です。また、私自身も今回の地域をもう一度訪れ、物資が本当に生かされたかどうか、調査を行いたいと思っています。被災地に駆けつけて終わりではなく、復興が軌道に乗るまで息長く。現地の方々と一緒に、これからも地道な活動を続けていきます。

企業が物を送るなら、よりよく生きる形で。

秦 好子 JFFW事務局幹事

20060110_9.jpg 一九六九年まで女性の消防官(当時の職種名は婦人消防官、現在は女性消防吏員)の採用はありませんでした。一期生は横浜市十名、川崎市十二名。災害を未然に防ぐための予防業務をスタートさせ、その市民指導を女性が担っていくという方針の採用でした。当時、女性の昇進などほとんど考えられない民間企業にいた私は、「ここだ」と横浜市消防局に入りました。ええ、第一号です。草を刈る役割ですね(笑)。

 現在、女性消防吏員は全国で一九七一名。予防業務だけでなく、警防、指令、救急等、職域も拡がったとはいえ、消防はやはり男の職場です。そこで全国の仲間が横につながろうとつくったのがJFFW(ジャパン・ファイヤ・ファイティング・ウイメンズ・クラブ)。当初は愚痴をこぼしあったりする集まりでしたが、しだいに前向きで活発な集まりになり、いまでは業務で得た知識や情報、ネットワーク力を広く社会に発信していく活動に取り組んでいます。

 私たちは、高齢者や女性、子供など、弱い人の代弁者でありたい。まず第一にこれがあります。

 新潟県中越地震のときのことです。避難所の体育館で雑魚寝するのはつらいですから、ダンボールでいいから枕元に衝立を立てたらどうですかという話をしたんです。ところが男の人は「そんなもの要らない」という。男性に大きな声でそう言われると、やはり女性は黙ってしまう。更衣室にしてもそうです。板ダンボールで囲ったささやかなものでも、女性には着替えをする場所が必要ですよ。おむつをされている老人も、そうした場所があれば安心です。例をあげたらきりがないのですが、大きな災害が起きると弱い人への配慮が後回しにされるのが現実なのです。

 弱い人に限らない問題もあります。企業から送られたものが不用品になっているケースです。そこで新潟・三条市の水害の際、緊急支援に加わったユニクロの方に声をおかけしました。支援物資がどのように手渡されるか現地で確認されてはいかがですか、ボランティアも体験されたらどうですかと。行ってみたいとすぐにおっしゃり、ボランティアのコーディネートからご一緒させていただきました。それ以降、災害支援の際には、情報提供や具体的なアドバイスをさせていただいています。

 中越地震の場合、震災発生から五日間で十トントラック一四五台が新潟県に入っています。どんな物資が、どのタイミングで、どれだけ届くのかわからないまま、続々と到着する。衣類で言えば、ある避難所で目にした光景ですが、LLやSSサイズばかりでMとLがなかったり。三条市の水害では、真夏なのに、オーバーなど冬物衣料もありました。これでは不用品の山ができてしまいます。

 現地で求められているものを、適切なタイミング、適切な質と量で届ける、企業横断の仕組みづくりが必要です。そのとき大切なものがあります。的確な情報を得る仕組み。配るのは人の手ですから、ボランティアをオペレートする仕組み。少なくとも不用品を後でこっそり処分しなくてもいいようにしたいし、被災者の生活の質を貶めないようにしたい。
 同時に、災害の予防業務に長年携わってきた者として、地震対策の啓発の大切さも痛感しています。

 一九八二年、北海道の浦河で関東大震災級の地震がありましたが、一件の火災も一人の死者も出ませんでした。地震多発地域だったため、地元の大工さんの意識と技術のレベルからして違っていたのです。地震で潰れる家をつくらないというのが徹底していた。天災と折りあいをつけて生活していたんですね。

 一方、阪神淡路大震災では一瞬のうちに五千人もの方が亡くなりました。阪神地域では巨大地震は起こらないと行政でさえ思っていたのではないでしょうか。家の耐震性を高め、家具を固定し、火災を防ぐ対策を行なっていたらと思うと残念でなりません。

 私たち日本人は地震の巣の上に住んでいるのだということを真剣に受けとめたい。そしてしっかり備えたい。過去の経験を大切にして、同じ涙を流さないように。「大地震では日頃から生き残ろうと思っている人が生き残る」ということを言い続けようと思っています。

「考える人」2006年冬号

(文/取材:新潮社編集部、撮影:ジェン)

詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい