2007年12月28日
ミーナ津田沼 オープンの舞台裏~「考える人」2008年冬号~
~「考える人」2008年冬号(新潮社)より転載~
第三の居場所をつくりだす
ミーナ津田沼
商業施設事業部部長
門脇 滋人 (Kadowaki Shigeto)
父は税理士で、祖父は絵描き、曾祖父は鳥取の庄屋でした。代々のなかで、サラリーマンをやってる人間というのは、私と兄が初めてなんです。私が経営学科(東京大学経済学部)に入ったのも、将来は中小企業を経営できれば、という気持ちがぼんやりあったからです。サラリーマンを二十年以上やった今でも、上から与えられる仕事をやるより、自分で仕事をつくりだしたいほうなんですね。
大学を出て三井不動産に就職したのは一九八五年でした。バブル前夜のタイミングです。しかしバブルは五年後にピークを迎え、それからは下り坂。「暗黒の十年」が待っていた、というわけです。
最初の五年半は大阪勤務でした。商業ビルの企画開発や「花と緑の博覧会」のパビリオンの運営など、いくつかの仕事を経験してから東京に戻り、今度はオフィスビルの企画や開発を行うビルディング事業部に配属されました。
土地を買い建物を建てテナントに貸す、という方法以外に、土地のオーナーに建物を建ててもらい、三井不動産が借り受け、テナントを募る、という事業も手広くやっていました。当時は誰もが、土地の値段は永遠に上がってゆくという幻想を抱いてましたから、家賃の設定も強気でしたし、「家賃はこういう風に上がっていきますので、二十年間貸してくださいませんか」と約束したりもしていました。
ですから、バブルがはじけた後は家賃を下げる交渉が仕事になりました。これは本当につらかった。個人のオーナーは資産といえるものは土地だけで、その収益をあてにして建物を建てたわけです。最初は「ぜひ建てさせてください。家賃は上がっていきますから」だったのが、「申し訳ありません。家賃を下げさせてください」ですからね。それは怒ります。今思いだすだけでも、胃が痛いです。
アウトレットモールを担当する
企業広報担当を三年務めた次に異動した横浜支店では、アウトレットモールの計画が始まった頃でした。横浜市の港湾局が所有する海沿いの埋め立て地に、三井不動産が建物を建ててテナントを集め、アウトレットモールを運営するプランです。三井不動産としては大阪につくったばかりで、関東では初めての試みでした。この時はまだ町田にも御殿場にもアウトレットモールがない頃で、自分で言うのもなんですが、横浜がその後のブームの火付け役になったんですね。
アウトレットモールは一九八〇年代にアメリカで広まった商業施設です。一言で言えば、様々な理由で抱えてしまったブランド品の在庫を集めて、低価格で販売するショッピングセンター。しかし日本ではなかなか成立しなかった。デパートに出店してブランド品を売るアパレルの立場からすると、百貨店で商売をさせていただいている感覚が強いんですね。だから百貨店以外の場所でしかも低価格で販売するのは、力関係からいってもちょっと難しい。わざわざ車に乗って出かけなければ行けない遠い場所にあるのは、そういう理由もあるんです。
百貨店との関係や、本当に在庫処分ができるのかという心配から、出店を渋るテナントを説得するのは大変でしたが、四十六ある店舗も最後にはすべて決まり、なんとかこぎ着けたオープン初日。一九九八年九月四日は想像を遥かに超える大混雑でした。海沿いの工業地帯に面した通りは大渋滞。倉庫や工場に向かうトラックも多いので、何百件というお叱りのお電話をいただくことになり、泣いている女性スタッフもいました。駐車場は七五〇台分用意していたんですが、あわてて駆けずり回り、追加で二千台分を確保することにもなりました。
それからはメディアに続々と取り上げられ、一大ブームになっていったのはご存じの通りです。三井不動産はこの成功で、南大沢、幕張、神戸へと展開を拡大しました。所長としての二年間、テナントやお客様の喜ぶ顔やクレームまでを肌身をもって感じることができたのが、今の自分のよりどころになっています。
商業施設も「生もの」
一年目は予想を上回る約二百億円の売り上げ。商品さえあれば勝手に売れてゆく状態でした。しかし二年目は売り上げが半分近くまで下がってしまった。
痛感したのは、アウトレットモールだからといって魔法の空間ではないということです。お店としての環境やサービスを整えなければ、お客様は再び来てはくださらない。初年度のブームのときには品出しをするのが精一杯で、お客様への挨拶すらできていなかった。すべてはお客様のためという、商売の基本中の基本に立ち返る必要がありました。
テナントと我々は一心同体なんです。賃料は売り上げ歩合なので、テナントが潤えば我々も潤う。だからこそ、お互いに目標をきちんと設定する。売り上げを伸ばす改善のためのアイディアも相談しなければなりません。
商業施設はある意味で「生もの」なんです。鮮度が命なんですね。ひとつでも腐ってしまうと、周りに悪影響が及ぶ。ですからテナントの入れ替えも起こります。A、B、Cの業績評価をつけて、C評価が続くようだと肩たたきもしなければならない。私が所長になってからも、半分近くのテナントの入れ替えがありました。お客様に喜んでいただける場所として維持するためには、そのようなことも必要になってくるわけです。
アメリカで見たもの
四十歳になって、社内制度の特命留学でアメリカ西海岸に行きました。カリフォルニア大学バークレー校のエクステンション・スクールで勉強をしたり、メリルリンチにインターンシップで通ったり。それ以外では、アメリカの商業施設をまのあたりにしたのも、個人的にはずいぶん勉強になりました。
地域に住む人々のライフスタイルを徹底的に研究し開発した「ライフスタイルセンター」という商業施設があります。巨大なショッピングモールとは違って、降雨量の少ない西海岸ならではの、全体をおおう屋根のないものが多い。建物自体も演出されていて、ちょっと高級な店がカフェやレストランと町並みを再現している。これがアメリカには四百カ所ぐらいあるんです。日本の商業施設の未来を考えるヒントになると思いましたね。
日本に戻ってきたのは二〇〇二年です。新たに担当することになったのが、六本木の東京ミッドタウンでした。ホテル、オフィス、高級賃貸住宅、商業施設、コンベンションホール、美術館が集まった、街づくり再開発の仕事です。コンセプトは「都会の上質な日常」。ホテルや住宅、オフィスなどの収益施設だけでは不特定多数の人がフラッと訪れる機会を増やせないので、美術館やコンベンションホールなど、その場所の魅力を高める付加価値施設も建てられる。私が担当したのはその部分でした。
二十年以上勤め、東京ミッドタウンのような仕事も担当できる。居心地のいい会社ですし、老後の心配もない。しかし、このまま三井不動産にいたら現場からはどんどん離れてマネジメントの仕事にシフトしてしまうのは目に見えている。
アメリカでの経験もこのままではいけないという思いにつながりました。とくにサンフランシスコは、「考える人」の前号のアメリカ特集でも取材されているとおり、会社勤めよりも自分でビジネスを始める人が讃えられる世界なんです。二十年同じ会社に勤めているのは、よほど無能かよほどできる奴かのどっちかだという考え方。会社や仕事についての意識はそれぐらい違う。アメリカで学んだのは、仕事と自分の人生の関係は、もっと対等でなければいけない、ということでした。自分がほんとうにやりたいと思った仕事を、主体性をもってやり遂げる。シンプルで前向きな考え方に触れ、僕のなかで動くものがありました。
そんなとき、二〇〇五年に日本経済新聞に出たファーストリテイリングの大きな人材募集、「経営者は育てられません。創業者募集」という告知を見たんです。ここなら仕事をあてがわれるのではなく、自分で仕事をつくりだし、現場で指揮をとってやり遂げることができそうだ--そう直感したんですね。
サードプレイスをつくる
ユニクロでの課題は、商売のネタを見つけてくることでした。三井不動産時代から一貫してやりたかったのは商業施設ですから、「商売のネタ」はそれしかありません。ちょうどその頃、九州の福岡に商業施設開発の最初の試みである「ミーナ天神」のオープン準備が進んでいました。その仕上げをまずは手伝い、二〇〇六年の三月には商業施設事業部をつくってもらって、既存の商業施設にユニクロがテナントとして入る従来の方法ではなく、商業施設そのものを最初からプロデュースし、その全体をユニクロが牽引してゆく事業を本格化させたのです。
自分の足で物件を探し、最初にオープンにこぎつけたのが今回の津田沼です。千葉県北西部のベッドタウンエリアの中心で、半径五キロ圏内に五十四万人もの商圏人口がある、得難い場所でした。
アメリカの社会学者レイ・オールデンバーグは、「都市生活者にとって、家庭と職場以外の第三の居場所が必要である」と一九八九年に述べています。情報化が進みストレスも強くなっている首都圏の生活者にとって、第一の場所である家庭、第二の場所である職場、その往復だけでは何かが足らない。煮詰まってしまう。通勤通学の途中や週末に、ほっとできたり何かの発見があったり、気持ちの弾む買い物ができる第三の場所が求められているだろう。津田沼の物件は、その仮説を商業施設で具体化する条件が揃っていると思いました。
十一月にオープンした「ミーナ津田沼」は、新京成線の新津田沼駅に直結したビルで、JR津田沼駅にも徒歩五分の場所にあります。「ミーナ」というのはスペイン語で「宝の山」。延べ床面積四千坪以上にもなる建物全体を、ファッション、生活雑貨、カフェ、書籍など日常を豊かに楽しくするような「宝の山」にするにはどうすればいいか。ただ漫然とテナントを募っても駄目です。津田沼エリアを生活圏内にする人たちが具体的にどんなものを求めているかを知る必要がある。アンケートをとり、対面調査をし、グループインタビューも行って、徹底的に調べると、このエリアならではの傾向も浮かび上がってくるんですね。働く女性にとって、駅ビルやデパートはつねにプライオリティーの高いスポットで、その良し悪しはテナント自体の魅力、空間の魅力によって左右されることも見えてきます。巨大ビルではありませんが、そこに比較的小さい店を五十二も入れることで、あちこち覗いて回遊する楽しさを演出する--「ミーナ津田沼」の商業施設としての性格をそのように決めました。
六階と七階の二フロアに千葉県最大のユニクロを出店し、七階の半分には女性読者に根強い支持のある書店、有隣堂が入っています。目的性の高い店を一番上に置くのは、「シャワー効果」と呼ぶもので、買い物を終えたお客様が店内を回遊しながらおりてくる、というフロア構成なんです。サードプレイスの大きな目的はリラックスですから、英国式リフレクソロジー、女性専用フィットネス、ネイルサロンもあり、フラワーショップ、漢方薬局、マツモトキヨシもあります。洋服や靴もここで修理に出せる。一階、二階にはカフェもあり、三階から五階まで各階に休憩所も設けましたから待ち合わせもできますし、地元の皆様のギャラリーとしても活用していただく予定です。
日本人の接客は世界一です。しかしその美質が次第に失われている。最近の若い人は挨拶が苦手です。「ミーナ津田沼」ではスタッフに笑顔で挨拶してください、とお願いしています。挨拶が自然にできるようになれば、施設全体の雰囲気もよくなっていくはずだからです。そういうものも含んだ集合体こそがサードプレイス=第三の居場所にふさわしい。
これから「ミーナ津田沼」と同じような、ローカルでヒューマンスケールの商業施設を、京都、町田と続けてオープンしてゆく予定です。ご期待ください。
オープン初日には、約1500人もの待機するお客様の列がビルのまわりに並んだ。オープンセレモニーには習志野市副市長も列席、地域の活性化への期待が述べられていた。地下2階、地上8階のビルには、千葉県最大規模のユニクロのほか、ファッション、フィットネス、書店、カフェ、薬局なども出店し、津田沼エリアを生活圏内とする人々のお気に入りの「サードプレイス」として、好調なスタートを切った。
ファーストリテイリングは、「商業施設事業」による関東初の物件として、2007年11月、「ミーナ津田沼」をオープンしました。ミーナ津田沼は、新京成・新津田沼駅に直結、JR津田沼駅からも徒歩5分。1日あたり27万人の乗降客数を数える抜群の利便性を誇ります。また、半径5km内の商圏人口は約54万人。千葉県北西部のベッドタウンエリアの要衝です。この立地を活かし、ミーナ津田沼は首都圏を通勤圏内にする20代前半~30代の女性を中心に、時間を忘れて楽しめる「サードプレイス」を目指して参ります。
「考える人」2008年冬号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。