2007年12月28日
ユニクロ ラ・デファンス店オープンの舞台裏 ~「考える人」2008年冬号~
~「考える人」2008年冬号(新潮社)より転載~
パリの時間、パリのルール
ユニクロ ラ・デファンス店
ユニクロ・フランス社 ディレクター
ポール・マイルズ (Paul Miles)
アメリカ人の父親が日本で貿易関係の仕事をしていたので、幼稚園から小学校、中学、高校と横浜インターナショナルスクールに通いました。日本人の母親は厳しい人でしたから、英語ばかりではなく日本語もしっかり読み書きできるように、塾のテキストで国語の勉強もさせられました。
夏休みになると父親の実家があるデトロイトで過ごすのですけれど、そのスーツケースがめちゃくちゃ重い。何でこんなに重いんだろうと思ってあけてみたら、塾のワークシートがひと夏分、ドサッと入っていた(笑)。僕は野球少年だったので野球がやりたくてしかたがなかった。でも「あなたは日本人の血も入っているんだから、将来のため」と、母親にしっかりと日本語を教育されました。厳しく教えられたのは、今になって思えば恵まれていたなと思います。
僕の誕生日は十二月七日の真珠湾攻撃の日なんですよ(日本時間では八日)。小学生の頃、両親が「真珠湾は奇襲じゃない。アメリカは知っていたんだから」「いやそうじゃない、あれは日本の奇襲だ」と、僕の前で論争をしていたのを覚えています。夫婦だからといって容赦しない。そういう様子を見て育ちましたし、アメリカと日本の関係にも興味があったので、将来は外交官のような仕事に就きたいと思うようになったんですね。
大学はニューヨーク州のコーネル大学です。学んだのは政治経済。卒業後はワシントンD.C.にあるアメリカン大学の大学院に進み、勉強しながら法律事務所でアルバイトをしました。リサーチの仕事です。ちょうど富士フイルムとコダックの日米摩擦があったときで、アメリカは日本のフィルム市場の閉鎖性を主張して、一九九六年にWTO(世界貿易機関)に提訴したんです。僕が働いていた法律事務所がこれを担当していました。僕の仕事は日本の写真業界の新聞を六〇年代から徹底的に読み直して、十何冊にもなる資料ファイルを作ることでした。大変でしたけど勉強になりましたね。一時帰国し、立命館大学の大学院に入り、この経験を生かして、WTOなどの国際機関が政治や経済にどのような役割を果たしているのかについて研究しました。卒業後、日本での研究を元に、論文を完成させるため、アメリカへ戻りました。
ビジネスマンにはなりたくない
僕の父は自営業で、出張や休日出勤が多くて不在がちでした。ところが隣の家はアメリカ大使館勤務のお父さんで、家に帰ってくるのは早いし、週末はいつも家族と一緒。うらやましかった。それを見ていて絶対にビジネスマンにだけはなりたくないと思っていました。自分が働くなら政府関係の仕事と心に決めていたのにはそういう理由もあったんです。
大学院時代に働いていた法律事務所に、僕と同じように父親がアメリカ人で母親が日本人の、ひとまわり上の世代の弁護士がいました。彼は九〇年代前半にアメリカ通商代表部の日本オフィスにいたんです。将来のことを相談したら「おまえは政府向きじゃないよ」と。政府関係の組織にはアメリカでも年功序列が残っているし、スピードも民間に比べると遅い。正当に評価されたいんだったら民間のほうがいいって言うんですね。「もしどうしても通商代表部に行きたいんだったら紹介するけれど、その前に一度は民間も見ておいたほうがいいぞ」と。
当時の僕のルームメイトは早稲田からの留学生で、彼はコンサルティングの会社を目指していました。僕はずっと政府関係の仕事をと思っていたので、コンサルティングがそもそも何なのかも知らなかった。彼に聞くと、「会社を外側からアドヴァイスして経営を助ける仕事だよ」と。じゃあ具体的にどういう会社があるのかと調べてゆくうちに、戦略系のコンサルティング会社の他に、会計系コンサルティング会社の「ビッグファイブ」がある、と。日系企業が集まるフォーラムがボストンであるとわかって、出かけてみることにしたんです。結局、そこで面接を受けたPwCコンサルティングの日本支社に入ることになりました。
配属になったのは発足したばかりの保険のチームでした。当時は日本の保険業界も激しく再編にさらされた時期です。破綻して外資に買収されたら、システムや会計、組織の変更を短時間でこなさなければならない。そのサポートですね。これを三年近く、必死でやりました。
投資ではない、事業の魅力
次に移ることになった会社はゴールドマン・サックス・リアルティです。何千億の負債を抱えて倒産したゴルフ場会社を買収して再生させ、さらには株式を上場し、投資のリターンを生むという事業を担当しました。二〇〇二年ですからゴルフ人口が底を打っていた頃です。だから、今までとは違うアプローチで新しいブランドを作る必要がありました。経営企画はもちろん、PR会社と組んで新会社の名前やロゴを考え、翌年には「日本最大のゴルフ場運営事業が発足」と報道されるまでになりました。倒産を経験した社員の方々の顔つきも次第に生き生きと変わっていく。現場へ何度も足を運び、支配人の方々と話し、お客様を実際の現場で見て勉強するのが、面白くてしかたがなかったですね。
この仕事にはふたつの側面があります。投資して短期間でリターンを得ること。もうひとつは新しく出発した事業を二十年、三十年と継続して発展させること。後者なら、女性客をどうやって取り入れるか、子どもの段階からゴルフに親しんでもらうにはどうすればいいか、といったアイディアが必要です。でも、それは短期では結果は出ない。そのなかで僕は、この仕事を通じて、長期的な視点に立った事業に、これまで以上に強い興味を持つようになっていったんです。
ゴルフ事業の仕事に区切りがつき、今度はマイクロソフトの日本支社へ転職し、新しく就任したカナダ人の社長の補佐のような仕事を担当したんですが、本当は損益を自分で具体的に判断しながら事業を進めてゆく仕事がしたいと思っていたので、興味の方向と少しずれていたんですね。
ちょうどその頃、柳井社長に紹介される機会がありました。二〇〇六年の二月です。ブランドをどうやって伸ばしてゆくかに興味がありますとお話ししたら、それなら海外事業部の仕事ですね、と言われました。
日々の売り上げが目の前にあるような仕事で、新しい市場を開拓するのに興味がありましたし、何しろ日本の会社は初めての経験だったので、やってみようと。ユニクロに移ってきたのはそういうきっかけでした。
小屋からのスタート
入社して、海外事業部の執行役員だった人と面接をしたら、「あなたの履歴書やレジュメを見ても全然印象に残らない。何をやりたいのかさっぱりわからない」と完全に否定されてしまった。面白い人なんですけど、ダイレクトで失礼な人なんですよ(笑)。負けていられないので、僕も自分の可能性を精一杯主張した。最初は駄目かと思ったんですが、結局は海外事業部に配属になりました。
担当はたぶんアメリカになるだろうと思っていたんです。そうしたら「次の新しい市場はフランスだから、フランスに行ってください」と言うんです。予想外でしたし、フランス語もしゃべれないし、僕でいいのかなと思いながら、入社二ヶ月でフランスに行くことになりました。
そのときはまだパリにはユニクロのデザインスタジオしかなかった。グループ企業のコントワー・デ・コトニエのオフィスがあって、それはフランスの古い素敵な屋敷なんですけれど、その家の門を入った右側にある小屋のような建物をオフィスとしてあてがわれた。通じるか通じないか微妙な電話がひとつあるだけ。ITのインフラなんて何もない。最初は僕ひとりです。二週間フランスにいて二週間日本に戻るという往復の日々が続きました。「ポール、孤独との闘いだね」なんて会社の人に言われながら、秋になって現地法人ができ、小屋からはやっと脱出です(笑)。
フランスは受け入れられるまでが大変なんです。新しいものにミーハー的に飛びつくということをしない。最初は遠くから見ている。でも面白いことをやっているとわかってくると、一度試してみる。それが良かったら、飽きずにずっとつきあってくれる。そういう人たちなんです。賢い消費者なんですね。品質へのこだわりも強い。シンプルなものを好む傾向にもある。それはユニクロのポリシーにも重なります。日本に対するイメージはとても友好的ですから、勝算は充分にある。
難しいのは、店舗をどのような規模でオープンするかということなんです。パリには大手チェーンのようなパン屋は少なくて、店は大きく構えていない。日本ではスーパーにおされて、どんどん消えゆく運命にある魚屋や肉屋が、パリではまだ元気にやっているんです。つまり大規模小売店が規制されているんですね。
たとえば三百平米以上の店舗で、もともとは違う業態の店、たとえばレストランだったところをユニクロの店にするにはパリ市への申請が必要です。審査する委員は六人いて、そのなかには小型店を守るグループも入っている。そのうちの四人以上の賛成がなければ許可されない。しかも審査には四ヶ月以上、さらに審査をし直す遡求権が二ヶ月分あるので全体では半年ぐらいかかってしまう。許可が下りても景観を維持するための建築の許可申請が必要で、これにも四ヶ月。たとえばシャンゼリゼに店を出そうとしたら、シャンゼリゼの文化的、伝統的なイメージをこわさないものでなければ許可が出ない。つまりトータルで一年ぐらいかかる。アメリカの二倍の時間です。
でも景観を守るというのは素晴らしいことだと思います。毎日、街を歩いていてもパリの美しさには飽きませんから。高層ビルが建っていないので空が広い。一日のうちでだんだん空の色が変わっていくのがわかるんですよ。ニューヨークや東京では味わえない魅力がある。
働くことについての意識も違います。日曜は仕事は完全にお休み。一週間で三十五時間しか働いてはいけないという法律もあります。夏休みは五週間。仕事のオンとオフのスイッチが非常にはっきりしている。たとえばランチタイムにスーパーへ昼食のサンドウィッチを買いに行ったとします。レジにはもの凄い行列。レジはいっぱいあるのに、ひとつしか開いてない。やっと順番が来て「どうして他のレジを開けないの?」って聞けば「だってランチタイムじゃない」という答えが返ってくる。だから、日本のユニクロのシステムをどう導入するか、非常に難しい。とはいえ、こういうフランスの枠組みのなかでユニクロらしい店を実現できなければ、出店する意味もありません。社員教育を含めて、やるべきことはいっぱいあると思っています。
一号店は、まずは十二月十四日に、パリ近郊のショッピングモールの小さなコンセプトショップからスタートします。ニューヨークやロンドンのグローバル旗艦店クラスの店は、それから先の計画です。
準備を進めながら驚いているのは、メディアの関心が非常に高いことですね。ユニクロが何にこだわるブランドなのか、どうしてフランスなのか、日本ではリサイクルにも熱心なようだがフランスでも同じように取り組むのか、といった突っ込んだ質問がぶつけられてくる。好意的な関心が寄せられている感じが強いんです。課題は山積ですが、手応えは充分すぎるぐらい。オープンはもう時間との勝負でプレッシャーはありますけれど、楽しみな気持ちも強いです。
パリ近郊、ラ・デファンス店の店舗のプロデュースはニューヨーク、ロンドンのグローバル旗艦店と同じく佐藤可士和氏が、インテリアデザインもワンダーウォールの片山正通氏が担当している。パリのグローバル旗艦店のオープンに向けた準備も着々と進行中。
ファーストリテイリンググループの事業会社、ユニクロ・フランス社は、2007年12月14日、フランスでのユニクロ第一号店、ラ・デファンス店をオープンいたしました。新凱旋門地区にあるこのコンセプトショップでは、ファッション感度の高いフランスの人々にユニクロからのメッセージを発信し、ブランド認知の向上を図ります。また、マーケティング、店舗オペレーションの習熟なども行い、「フランス市場に最適なユニクロ」を追求してまいります。さらに、ニューヨーク、ロンドンに続く、グローバル旗艦店も、パリ最中心部にオープンすべく準備が進行中です。
「考える人」2008年冬号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。