プレスリリース

2008年07月07日

UNIQLOCKの舞台裏~「考える人」2008年夏号~

田中耕一郎氏~「考える人」2008年夏号(新潮社)より転載~


ウェブと身体表現の可能性
クリエイティブ・ディレクター
田中 耕一郎(Tanaka Koichiro)

 生まれ育ったのは奈良です。京都との境にある高の原という町で、保育園から小学校、中学校、高校と自宅から歩いて行けるところに通ってました。
 小学校では野球をやっていて、ピッチャーで四番で、足も一番速いし割とモテたんですね。あの頃が自分のピークで(笑)、身体能力の高さには絶対的な自信があったのに、中学に入ってサッカー部に入ったら、僕より足が速いのがいたり、球使いがうまい人がいたりして、相対的に自分はたいしたことないんだと気づいてしまった。勉強もだんだんできなくなって、もともと口ベタなほうだったし、関西で口ベタなのはポイントがグッと下がりますから、あとはもう暗くなってゆくばかり(笑)。
 中二ぐらいから映画を見たり、本を読んだりするようになったのは、そういうこともあったと思います。最初にいちばん夢中になったのはチャップリンでした。人間の存在を全肯定するストーリー。自分で脚本を書き、監督し、演じてしまう。世界にはこういう人がいるんだと、本当に神様のように思いました。レンタルビデオ屋が始まった頃で、ビデオを借りてきては自分の部屋で見ていました。
 ウディ・アレンの映画なんかを見ていると、彼はちょっと病んだような役柄で、精神分析医に診てもらったりしている。ニューヨークだったら精神分析医に診てもらうのも普通のことで、自分が変なのはそんなに心配しなくてもいいんだと安心したりもしてましたね。
 本では、強烈なもの、読む側を試してくるような激しいものが苦手で、ミヒャエル・エンデ、宮沢賢治などの児童文学が好きでしたね。映画やドラマへの興味もあって、黒澤明、向田邦子、山田太一といった方たちの脚本も読み漁りました。
 高校に入るとき、そういう自分の暗いキャラをリセットしたくて、割と明るい、どんどん話しかけていくポジティブな性格をつくってみたんですけど、二ヶ月ぐらいしかもたなかった(笑)。スポーツをやる気も失せていましたからクラブにも入らない「帰宅部」で、高二ぐらいからは誰も自分を知らない場所でもう一度やり直したい、奈良から脱出したいという気持ちが強くなっていったんです。第一志望に慶應の環境情報学部を選んだのは、受験科目が英語と小論文だけと少なかったからで、一年ちょっとの勉強でも間に合うかもって思ったからです(笑)。ハリウッド映画の音声をカセットに録音して、それを聴きながらシナリオを読んだりして、英語はそこそこできるようになっていましたし、本も乱読してましたから。
 環境情報学部が湘南藤沢キャンパスにあるのも大きかった。湘南と言っても、辻堂の山奥にあるわけですから海に面しているわけじゃないんですけど、「湘南」という言葉への憧れが強くて、大学に入ったらすぐ、海まで自転車で十分という辻堂に部屋を探して、大学で知り合った友だちと一緒にサーフィンを始めました。湘南で暮らしてサーフィンをやって、出会いがあってと夢をそのままなぞる日々(笑)。波のある日はほとんど海に入ってましたね。大学三年までそんな毎日だったので、成績は最低でした。
 ただ、環境情報学部は、文系と理系の境界にあるような学部で、先生が投げかける分野横断的なテーマから、自分の興味のあるものを編集していくようなスタイルでした。今の僕の方法、映像や音楽を編集していくようなやり方って、SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)で学んだんだと思いますね。もともと文系だったので、大学に入るまで、数学的な思考にぜんぜん興味がなかったんですけど、SFCで、その面白さとか美しさに触れたと思っています。
 一方で、大学時代も、映画は見続けていました。それで、たまたま就職活動の最中に見た映画が、岩井俊二監督「Love Letter」と是枝裕和監督「幻の光」の二本立てで、これに圧倒されたんです。二人とも、当時三十歳そこそこで、それが処女作だったんですが、いままでの日本映画とも外国映画とも違った、新しい映画の魅力を放っていたんです。それが、映画にかかわる仕事ができたらなと具体的に思うようになった、大きなきっかけです。

毎日がめちゃくちゃ辛い

 就職したのは、映像制作会社でした。最初の仕事は制作進行で、要するに小間使い。プロデューサーの下について、雑事全般をこなす。たとえばCMに出るタレントさんの好物を調べておいて控室に置く茶菓子を用意するとか、大きな仕事ではスケジュール管理です。撮影は場合によって百人を超えるようなスタッフがかかわる場合があるんですが、全スタッフのスケジュールリストをつくって、パズルを組み合わせるように予定をすりあわせながら組み立てるわけです。それがうまい人と下手な人がいるんですけど、僕は圧倒的に下手でした。基本的に自分の感覚は鈍なんだなって、つくづく思い知らされた。毎日がめちゃくちゃ辛くて、毎日やめたいと思ってました。ただCMディレクターがどう演出し、カメラマンはどうやってアングルを決めるかなど、映像をつくるプロセスを現場で見ることができたのは大きかったですね。
 そんな仕事を二、三年やってプロダクション・マネージャーになるわけですけど、自分にはどうしても向かないと思って異動を願い出たら、一回は自分でやってみてからにしろと言われて大きな現場を任されたんです。平塚競技場に二百人ぐらいエキストラを入れて、ウルトラマンと怪獣がサッカーの試合をする円谷プロのコマーシャルの撮影でした。もうパニクっちゃって大変でしたけど、制作のプロセスを予めきちんと考え抜いておけば、現場でパニクっても何とかなるんだ(笑)、っていう貴重な経験になりました。
 次に移った映像事業室では、ウェブ上の放送局を運営したり、デスクトップ用のコミュニケーションツールを作ったり、テレビと連動したデータ放送のコンテンツを企画したり、要は、広告と映像の研究開発みたいなことをしていました。その時は、グーグルもまだなかったと思います。ちょうどヤフーなどのポータルサイトが提供するバナー広告が、ウェブ広告とほぼ同義に捉えられていた時期でした。
 その当時、プロデュースを担当したのが、NTTデータのネット上のバナー広告のプロジェクトでした。映画「セブン」のオープニングタイトルをつくったカイル・クーパーをはじめ、世界中の最先端のデジタル・クリエイターたちにバナーを舞台にしたアート作品を依頼したら、想像を超えた表現の振り幅が生まれたんです。この仕事が大きな刺戟になった。ネットの場の状況や、受け取る側の反応の質量もひっくるめたコミュニケーションの仕組みをつくっていくことで、広告表現そのものも新しくなることを痛感したんですね。驚いたのは、NTTデータは国内向けプロジェクトとして考えていたのに、百二十ヶ国もの人たちからアクセスがあったことです。当たり前のことなんですけど、ネットに国境はない。ネットは関心でつながってゆく場所、興味の集合体なんだということを肌で感じました。
 それから、いくつかの仕事を通じて、ウェブ上での体験の枠組みを才能ある人たちと組んでつくるには、全体を鳥瞰的に見て有機的に機能させる人間が必要だということを感じて、それが自分の仕事だと思えるようになった時に、独立しました。

アクセスが一億件

UNIQLOCK 二年ほど前に、ユニクロの「新メディア情報発信チーム」から声をかけられました。よく話を伺ってみると「新メディア」というのは単にユニクロのウェブサイトをリニューアルすればいいというのではなくて、ユニクロと消費者をネット上でつなぐ新しいメディアってなんだろう、という根本を考えようとしているのがわかったんです。それなら僕が考えていることと重なる。
 では何をどのように発信すればいいのか。最初に注目したのは当時もの凄い勢いで広がりはじめていた動画共有サイトのYouTubeでした。ここに何かの情報を投げかけて、ユーザーによって情報を広げてもらう仕組みを考えたかったんです。YouTubeを分析してみると、人気の動画はストーリーや言葉の面白さ、広告的ウィットがあるせいじゃない。広い意味での身体表現に人気が集中している。同時期にUNIQLO MIX、ユニクロの服をどうやってコーディネイトしてもらうかというテーマが動いていたときでしたから、ユニクロの服を着た人による面白い身体表現があれば、それに興味を持ちユニクロのサイトにたどりつく仕組みができるはずだと。
 すでにYouTubeでも人気が高かったダンスチームに、ユニクロのコーディネイトした服を着てもらい、彼らの面白いダンスと、その動きにシンクロした音楽でダンス映像を作りました。完成したのがMIXPLAYという動画で、You Tubeでは五十万アクセスに達し、ブログ上でも評判になって、ユニクロサイトへのアクセスも増えました。
 そこであらためて注目したのが、ブログでした。いま全世界で七千万あると言われており、その三分の一以上が日本のブログです。ここで見てもらうブログパーツをつくるのはどうだろうと。
 ブログパーツは、時計や天気予報などの機能があって、ブログの中に貼り付けることができる部品(パーツ)ですね。MIXPLAYで反応が大きかったダンスと音を時計に組み込んだブログパーツをつくったらどうか。さらにいうと、ダンス映像であり、音楽作品でもあり、ウェブサイトでもあり、ブログパーツでもあり、それらすべてを、時計のアルゴリズムで動かすアプリケーションでもあるもの。
 ダンサーの女性はオーディションで選び、その映像もYouTubeで公開し、これも話題になりました。撮影する場所は、抽象的で、どこの国なのかわからない、日常から少し浮いた感じのする場所をロケハンで選び出し、秒のリズムの振り付けと、秒のリズムの音楽にあわせて踊ってもらったわけです。
 企画の途中で、UNIQLOCKというネーミングを思いつきました。グーグルで検索したら、検索結果がゼロ。ネットにあがっていない言葉だったわけです。面白いパーツで明快なタグがついていれば興味の取っ手になる。この言葉を思いついたとき、これはいけると確信しました。UNIQLOCKなら言葉として流通しやすい。そこにサブタイトルのMUSIC×DANCE×CLOCKをつけたんです。UNIQLOCKだけではちょっと突き放し過ぎの感じがあるからです。サブタイトルがついていれば、音楽の側面で語ってくれる人が出てくるでしょうし、ダンスでも時計でも、どこから興味をもって解釈してもらってもいい。アクセスの幅が広がるわけです。
 五秒間のデジタル時計表示と、五秒間のダンス表現を交互に繰り返す映像が、世界のどこで、どれだけの人が見ているかも同時進行で見ることもできるようにしました。結果として、二百十二カ国からのアクセスが一億を超えました。

明快だけでは駄目

 広告は基本的に意味づけの作業ですが、ウェブの場合、すべてが解釈でき、明快であることだけでは駄目なんです。ジグソーパズルなら、全部はめて完成した状態ではなく、最後のピースは見た人がはめられるように作らないといけない。そこがウェブ上でひろがってゆくポイントなんですね。さらに言えばUNIQLOCKはまだアイディアを発展させてゆく余地がある。毎日グーグルの検索機能を使って、UNIQLOCKへの世界中からのコメントをすべて読んでいますが、これが面白いんですよ。僕らが考えもしなかったようなところで面白がってくれていたり、なるほどと思うようなヒントも書かれてあったりする。
 既存のメディアに表現をはめてゆくとか、既存の方法論に立脚してつくるというのではなく、方法論をつくったり、メディアの使い方そのものをクリエイトしたという点で、UNIQLOCKはいくつもの賞をいただくことになりました。革新的なアイディアだと評価されたのが何よりもうれしかったですね。
 次にはまた、あらたな身体表現を使ったプロジェクトを進めています。ご期待ください。

UNIQLOCK

uniqlo_logo.gifユニクロが、2007年6月からスタートしたUNIQLOCKは、時計機能を備えたブログパーツです。ユニクロの商品を着た女性たちのオリジナルのダンスによる映像が、デジタル時計と5秒間おきに入れ替わり表示されます。「MUSIC×DANCE×CLOCK」という〝言語の壁を越えた″コミュニケーションを通じて、ユニクロの世界観をグローバルに発信するUNIQLOCKは、6月現在、世界212カ国、1億件のアクセスを突破。これからもユニクロの「新メディア情報発信」にご注目ください。

「考える人」2008年夏号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 青木 登
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。