2009年04月14日
シンガポール進出の舞台裏~「考える人」2009年春号~
~「考える人」2009年春号(新潮社)より転載~
1998年、原宿店オープンの記憶
ユニクロシンガポール社長
小野口 悟 (Onoguchi Satoshi)
大学時代はとにかく貧乏でした。学費や生活費を全額稼がなければなりませんでしたから夜はバーでボーイやバーテンとして働きました。あまり考えずに始めたバイトでしたが接客が楽しかったですし、店長の人柄のおかげもあって、仲間のチームワークがよかったんですね。接客の原点としてもいい経験になりました。
大学で専攻したのは農業経済です。環境問題に関心があったんですね。卒論で取り上げたタイの焼畑農業は伝統的な農法であったのに、現在はそれが原因で農地が荒廃している。どのようなメカニズムでそうなっているのかを研究していました。しかし就職活動をする時期になっても、どういう仕事に就けばいいのか決められない。まわりはみんな就職活動をしているのに、自分だけ何もできないでいました。
そんな状態でいるのを友だちが心配してくれて、合同セミナーに一緒に行こうと誘ってくれたんですね。そこで十社ぐらい集まっているなか、たった一社だけ聞いたことのない会社があった。それがユニクロでした。説明を聞いてみると、実力主義で、若くても努力すれば店長になれるし、給料も上がるというのがなんとも魅力的でした。こういう会社に入れば貧乏生活から逃れられる。ユニクロに入ったのはそういう動機でした。一九九六年のことです。
最初に配属されたのは多摩地域の東大和店です。仕事が自分に向いているのかどうかなんて考える暇もなく、ただひたすら働きました。楽しかったですね。半年後には八王子の店に異動し、店長に昇格しました。めざしていた店長ですからほんとうにうれしかった。ちょうど年末年始に向けたいちばん売上げのある時期に入っていて、もう大変でしたけど、自分にできることを最大限やることに無我夢中でした。そしてさらに店長として次に異動したのは、売上げの高い店でした。ところが、この店に移ったあたりからだんだんと悩み始めたんです。
売れないから、考える
店長の次にはスーパーバイザーという役割を担うことになり、さらにその次には地域全体をみるブロックリーダーの役割を与えられる。その道筋が見えているわけです。ところが自分はそんな役割は負えないと思ってしまった。当時、店長として自分がみていた部下は十名程度ですから、それぐらいならばなんとかなる。もし強力なスタッフがいなかったとしても、とりあえず店長である自分が頑張れば大丈夫、という経験上の感覚は持っていました。でもスーパーバイザーとなれば、同時に五、六店舗をみなければならない。自分ではその自信が持てなかったんです。いま思えば漠然とした不安だったのですが、当時の気持ちとしては、そんな不安のなかに自分が漂っていることがひたすら辛かったんですね。
春頃には退職届を上司に出しました。いろんな人に慰留されたのですけれど、気持ちは変わりませんでした。八月末の退職の日が近づいた頃に、最初の配属先だった東大和店時代、スーパーバイザーをしていた人が私の顔を見にきてくれたんです。その人は「辞めるな」とか「続けたほうがいい」ということは一切言わなかった。ただ話を聞いてくれたんです。辞めると聞いたけどこれからどうするのかとか、貯金はいくらぐらいあるんだとか、将来のことを少し質問するだけで、あとは雑談でした。君は入社したばかりの頃にこういうことを目指してやっていたな、というようなことまで覚えてくれていて、いろいろ話してくれるうちに、何でいま自分は悩んでいるんだろうと気持ちが晴れてきたんです。自分のなかのもやもやがすっきりしてくるのがわかりました。別れ際に「もしも少しでも未練があったら連絡してくれよ」とその人が言ってくれたのを幸いに、次の日の朝、すぐに連絡をしました。
戻ると決めても店長の枠はすでに空きがありませんでした。まあ一から始めるのもいいかと思っていたら、家族連れのお客様を対象にした「ファミクロ」店の店長を急遽、福岡で任されることになったんです。
「ファミクロ」という店は結局うまくいかず、今はもうなくなってしまったのですけれど、ここでの半年間は忘れがたい経験でした。なにしろ私のユニクロ人生でもっとも売れない店でしたから。売れないと、考えるんですね。どうやったらお客様に来てもらえるか、来てもらったお客様にどうやったら買ってもらえるか--ひたすら考えました。このときの経験が売上げの高い店に移ったときにも生きるんです。売れている店しか経験していないと、勝手に売れていくものと錯覚しがちです。それでは商売の本質を見失ってしまう。
考えたのは、たとえば買い物カゴを置く位置だったり、什器を並べる位置ですね。これひとつでもお客様の動きが変わる。そういう動線の作り方についてはもちろんマニュアルはあります。ただ、お店のかたちはいろいろですから、マニュアルの考え方を現実のお店にどう応用してゆくかを考えないと、間違えるんです。やっぱり現場にあわせて自分で考えないといけない。この売れなかった時期に、お客様に買っていただくにはどうすればいいか、必死で考えたのが、今の自分の財産になっています。
次に移ったのが、入社して最初の配属先、東大和の店長でした。二年間働いて、ある程度店のことがわかるようになってから戻ると、知っていたはずの店が、別の店のように見えました。それはつまり、自分が変わったからだと、今ならそう思えます。
原宿店で変えたこと
その次に担当したのが、原宿店のオープンでした。最初は、ことの重大性に気づいていませんでした。ユニクロは当時、都心の店はひとつもなくて、この原宿店を起点に、都心に次々と出店していこうという、その第一号店だったんですね。出店戦略を聞かされて、工事中の店舗を見に行って、これは大変なことになったという思いと、やるぞという気持ちとふたつ同時に湧いてきました。しかし新たに考えなければならないことが山のように出てくるんです。
店内のオペレーションを考えると、フロアが三階に分かれているのがこれまでに経験したことのない点でした。倉庫とフロアとのやりとりをいちいち階段を上ったり下りたりしてやってはいられないので、トランシーバーを量販店で買ってきて使うことにしたり--これは今のユニクロではインカムを使った基本的なシステムになっています--、また当時は、ショッピングバッグが三種類しかなかったのを、種類を増やしたり--これはハンカチやソックスなどだけを買うお客さんが原宿店には多いことに対応すべきだと思ったことから始まったのですが、一店舗のためだけに新しいショッピングバッグはつくれないとなかなか本部の了解を得られず、原宿の他のブティックの実態を実際にハンカチやソックスを買って調査し、お客様からアンケートもとって報告したり、実現まで苦労しましたが--、それまでの試着はボトムスだけという決まりごとを変えたのも原宿店でしたし、人件費の考え方を変えてもらったのも原宿店でした。
郊外型の従来のユニクロは自動車で乗りつけて駐車場にとめて、目的を持って買いにくるお客様が多いわけですから、来店した方の七割から八割は買って帰る。ところが原宿店は買って帰るお客様は二割なんです。店に立ち寄られるお客様がユニクロだけを目指して原宿にやって来たわけではないのですから当然です。ところが、売上げの面で見ると、買わないで帰ったお客様は数字には残りません。それでも接客は必要ですし、お客様は商品を広げてご覧になりますから、その分たたまなければならないし、記録には残らない作業量が二倍、三倍あるわけです。それに対応するには人の数が必要ですから人件費はもっとかかる。どうすればこの事態を伝えられるかを考えて、自分の一週間の休暇を利用して(笑)、毎日お店の外に座って、カウンターでカチャカチャとお客様の来店数を数えたんですよ。買ってくださったお客様の人数はレジで記録されますから、その数を引いた人数が来店したけれど買わなかった人の数になるわけです。そうしたら、二割の人しか買っていないとわかった。当時、柳井社長は山口の本社にいましたから、その数字を持って直談判したんです。そうしたら「だったら、買っていない人に買ってもらってください」と(笑)。「ああ、そうか、買ってもらえばいいのか」とそのときは納得して帰ったのですが、結論としては二割という数字はどうしても変えられず、人件費の考え方について新たな算定方法を導入してもらうことになったのです。
原宿店はフリースブームの火付け役になり、ユニクロが大きく成長する起爆剤となったのはたしかです。ところが一年半原宿店の店長をやったというだけで「こいつは凄いやつだ」という評価が一人歩きする感じが少なからずあって、これは本当の評価ではないのだから驕らないようにしなければと、しばらく気をつけていた時期が続きました。その後はスーパーバイザーや営業部長の仕事を経て、去年の六月から、ユニクロのシンガポール出店を担当することになったというわけです。
東南アジアでのユニクロを占う
最初にシンガポールの出店を担当せよと命じられて、何から始めればいいのかすらわかりませんでした。四月に言われて二ヵ月後に初めてシンガポールに行きました。いいところだと思いましたね。僕はあったかいところが好きですし。それからシンガポールについて自分なりの研究をスタートし、詳しい人からいろいろと話を聞き始めました。アジアでは、中国、香港、韓国に続いての出店ですが、地益的な観点でみていくと、交通、仕事、人の流れのハブ(結節点)の役割をシンガポールが果たしているんです。国土は狭いし、規模も小さいのですが、交通の経由地ですし、グローバル企業の東南アジアでの位置としては、その中心がシンガポールという場合が多い。五百万人に満たない人口ですが、年間での人の出入りが一千万人ぐらいある。もともと英国領でしたから、東南アジアとしてはかなり西欧化されています。
ユニクロとして考えた場合には、香港との関係が注目されます。シンガポールの人々はかなり香港を意識しているところがある。香港にも頻繁に旅行しています。香港ではすでにユニクロはかなり浸透していますから、シンガポールで買うユニクロが香港で売られているユニクロよりも値段が高いのだったら、香港に行ったときに買えばいい、と思われてしまう可能性もある。香港には消費税がありませんが、シンガポールは七パーセント。ここもどう考えるか。
シンガポールではほとんどの人が年に二回ぐらい海外旅行に出ます。ヨーロッパにも日本にも行きますから、そういうときに一気に買い物をする人が多い。ですが普段は財布のひもがかたいようです。たとえばクリスマスとお正月のシーズンの二ヵ月ぐらいの間、五十パーセントから七十パーセントもオフになるようなバーゲンをあちこちでやっています。そのときは店も大繁盛する。ふだんはガラガラの店だとしても。シンガポールの人々はセールにとても敏感なんです。携帯電話で配信するクーポンでアイスクリームが五十円引きになったりすると、平気で何時間も行列に並びますしね。そういう傾向がみられます。
一号店は東部地域の新しい商業施設「タンパニーズ ワン」への出店です。比較的所得の高い人々が住む地域らしい。ここでまずユニクロらしさを表現して、シンガポールでの浸透をはかりたい。その次の二号店は、都心のオーチャード通りに面した新たなランドマークになるであろう商業施設「アイオン」でオープンを予定しています。
いまポイントとして考えているのは、若い人にどうやったら受け入れられるか、支持してもらえるか、ということへのアプローチをどうするかです。しかし若い人ばかりに特化してしまうと、ブランドとしては間口の狭いものになってしまう。そのバランスがなかなか難しい。
計画はいろいろと用意しています。しかし実際に始めてみたら、こんな考えてもみなかったことが……という事態も充分に想定されるでしょう。そのときにどう対応できるか。これがいちばん大事だと思っています。シンガポール出店は東南アジアにおけるユニクロの今後を占うところがありますから、いわば日本での原宿店オープンのように、大きなターニングポイントになってゆく可能性がある。そう思いながら、準備を進めているところです。
ユニクロは東南アジアでは初となるシンガポールに出店いたします。4月9日に第一号店を、続いて6月上旬に第二号店をオープン。ユニクロの海外進出は、2001年の英国に始まり、現在では、英国、中国、香港、韓国、米国、フランスで店舗展開をしております。シンガポールは、今後のグローバル展開において、東南アジアマーケットへの布石となります。グローバル化を加速するユニクロ、初の東南アジア店舗オープンにご期待ください。
「考える人」2009年春号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 青木登
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。