プレスリリース

2009年07月09日

スペシャルオリンピックスの舞台裏 ~「考える人」2009年夏号~

~「考える人」2009年夏号(新潮社)より転載~

スペシャルオリンピックスのアスリートたち

認定NPO法人スペシャルオリンピックス日本理事長
有森 裕子 (Arimori Yuko)

有森 裕子氏  故ケネディ大統領の一歳下の妹ローズマリーには知的発達障害があった。彼女の存在はケネディ家の秘密だった。二十三歳で、当時は奇跡の療法とうたわれたロボトミー手術を受けたが、ローズマリーの治療は失敗に終わった。
 姉をとりまくそうした環境に憤りを感じていた妹のユニスは、やがて、自邸の庭を開放し、ローズマリーと同様に知的発達障害のある人たち三五人を招いて、太陽の下でスポーツを愉しむデイキャンプをスタートさせる。一九六二年、ケネディ暗殺の前年のことである。
 六年後、その活動が組織化され、「スペシャルオリンピックス」が誕生した。知的発達障害のある人々の自立と社会参加をめざし、日常的なスポーツトレーニングと競技大会を提供するスペシャルオリンピックスは、次第に全米から世界へと広がっていった。創立四〇周年を迎えた現在では、世界一八〇ヶ国以上で約二八〇万人のアスリートと七五万人のボランティアが参加する国際的なスポーツ組織となっている。
 今年、創立十五周年を迎えるスペシャルオリンピックス日本。その理事長が有森裕子さんである。有森さんが初めてスペシャルオリンピックスに参加したのは、二〇〇二年八月のこと。当時の理事長細川佳代子氏に声をかけられ、東京で行われた夏季ナショナルゲームにドリームサポーターとして参加したのた。知的発達障害のある人たちがスポーツを通して生き生きと活躍し、目標や夢に向かっている姿に改めて感動を覚えたという有森さんだが、子ども時代から彼らの存在が身近にあったという。

「スペシャル」の意味するところ

「岡山に旭川荘という社会福祉法人があって、子どものころ母がそこの養護施設に併設された養護学校の事務をしていたものですから、運動会を見にいったり、養護施設と地域の人たちとの夏祭りに行ったり、いろいろなかたちで接点がありました。物ごころついたころから、身体が不自由な人や、知的発達障害のある人たちが、ごく自然に近くにいたんです。
 でも最初は、子どもですから、この人たちはなんだろう、わたしたちとはちょっと違うな、どうしてかなと、思いました。そのときに親や周りの大人たちがどう教えるかですよね。私たちよりは大変なことがいろいろあるのだから、何かできるならそれをすることが大事だ、と母はそう言いました。お年寄りや小さい子どもも同じだと。
 人はみんなそれぞれ違う。その違いを補いあえばいい。背の高い人が背の低い人には手が届かないものをとってあげる、それと同じことで、特別なことではないと思うんですね。
 スペシャルオリンピックスの「スペシャル」とは、知的発達障害のある人たちのことを表わす言葉ではないと私は考えています。彼らが「特別」なわけではない。このスペシャルの意味するところは、彼らの存在ではなくて、この活動のもつ意味--つまり、この活動がまわりの人びとや社会にもたらすさまざまな影響がスペシャルなんだ、ということだと思っています。彼らの存在を通して、当たり前だとか普通だとかいう観点を、もういちど見直してみてほしいんです。
 とはいえ、それぞれの人たちには、並大抵でない不自由さがあるかもしれません。ただ、その不自由さも、彼らが住む世界によって変わりうるものだと思います。配慮のない、効率だけの社会にいれば、彼らはとても不自由な人になってしまう。でも住む世界が変われば、不自由の度合いも変わってくる。どの人間も、それぞれの不自由さを抱えているという意味ではいっしょではないでしょうか」
 二〇〇二年の東京大会のあと、翌〇三年にアイルランドのダブリンで開催された世界大会に応援団として参加した有森さんは、アスリートたちのみならず、家族や彼らをとりまく人びとの意識が変わっていくさまを目の当たりにしたという。有森さんは現在、コロラド州ボルダー在住だが、ハンディキャップを持つ人々と社会とのかかわりで、日本との違いを感ずることはあるのだろうか。
「ボルダーだけではなく、ダブリンの世界大会でも感じたことですが、人々の受け入れ方が自然ですよね。日本だと、ハンディのある人とのつきあいは、何か特別なことになってしまう。スペシャルオリンピックスの活動でも、彼らといっしょに楽しむというより、保護されるべき、助けてあげるべき人々としてとらえているように見えることがある。
 ボルダーではスーパーマーケットなどでも知的発達障害のある人たちが働いていますし、あらゆる施設がバリアフリーを義務づけられていますから、ハンディのある人たちが外に出ていく環境が整っている。でも最初からそういう社会だったかと問われれば、そうではないと思うのです。やはり、ハンディのある人たちが社会から離れた場所に留められたり、就労できなかったりということはずっとあったと思うんですね。ただ川の流れが向こうの方が速かった。日本は変わっていく過程にある、そうであってほしいと思っています」

同じアスリートとして

 有森さんはマラソンランナーとしてオリンピックに二度出場。一九九二年バルセロナ大会で銀メダル、九六年アトランタ大会で銅メダルを獲得している。アスリートとサポーターとしての違いはあるものの、オリンピックとスペシャルオリンピックスの双方に参加することで見えてくるものはなんだろう。
「競技に臨んで、チャレンジをして、全力を出し切ったアスリートたちの表情は、オリンピックもスペシャルオリンピックスもまったく変わりません。ただ競技結果をどう捉えるか、というところでは、大きな違いがあります。スペシャルオリンピックスの世界大会中に大怪我をしながらも完走した選手がいたのですが、その精神力を称えて、閉会式で金メダルが授与されるということがありました。これは難しい問題だと思います。
 そのがんばりはすばらしいし、称えたいと思います。けれどもそれを金メダルとすべきなのかどうか。私自身は、彼ら一人ひとりに、同じアスリートとして接していきたいと思っています。ですから、スペシャルオリンピックスの世界大会で移動するときなども、過剰にサポートするのではなく、自分たちでできることはどんどん自分たちでやってもらいたい。彼らの可能性を、まわりが見落としていないか、ということも考えていきたいんです。
 彼らは、知的発達障害があったがゆえにチャンスを得ることが少なかった。けれどスポーツにおいては、その壁が取り払われる。スペシャルオリンピックスの活動をしている彼らは、特別な存在でも何でもない、ひとりのアスリートなんです。
 彼らには、スペシャルオリンピックスを通して、がんばる力、喜びや夢を持って生きていく力をどんどんつけていってほしい。実際、彼らはチャンスを得て、大きく変わっていきます。さらに、スペシャルオリンピックスが、アスリートたちが力強く変わっていくのと同様に、ファミリーのみなさんも変わっていく機会になりうるようにというのがわたしの願いです。彼らを支えていらっしゃる家族のみなさんに、この子は本当はこんなこともできるんだ、と発見していただけるような、そういうプログラムでありたい、一歩でも二歩でもそこに向けて進んでいけるようにと思っています」
 身体障害のあるアスリートの世界大会、パラリンピックは、一九八八年のソウル大会以降、オリンピックに続いて同じ開催地で開かれるようになってから、日本でも広く知られるようになった。一方、スペシャルオリンピックスの認知度は、残念ながらまだまだ低い。
「スペシャルオリンピックス世界大会の記事が、オリンピックのように、ふつうのスポーツ面に載ること、それが夢ですね。パラリンピックの記事が、ようやくスポーツ面に載る時代になりました。スペシャルオリンピックスもパラリンピックも、管轄は厚生労働省ですけれど、いつか、スポーツ省なりスポーツ文化に特化した省ができたら、その中でいっしょに考えてもらえるような組織になりたい。そういう社会をめざしたいですね。
 いま理事長という肩書きをいただいていますが、活動においては、肩書きなんか無用だと思っています。お声をかけていただいて始めたこととはいえ、やりたくてやっている活動ですから。いわばボランティアのようなもので、ボランティアというのは、自分の意思で志願することですよね。だから、活動のなかでは『理事長』でなくただの『有森さん』でいいし、そう呼ばれたい。アスリートたちはみんな『有森さん』と呼んでくれます(笑)」

熱い心と冷めた頭で

「今年の二月に行われたアイダホの冬季世界大会でも、契約社員だったアスリートが、金メダルをとったことがきっかけで、正社員になったんです。オリンピック選手にも同じことがありますよね。機会を得られれば、彼らも刻々と変わっていく。社会も変わっていっている。いい方向に変わっていっているのだから、そろそろ、もっと普通のこととして考えてもいい時期ではないでしょうか。
 シンプルに応援してほしい。知的発達障害という壁を越えたスポーツの世界でこんなにがんばっているアスリートがいる、競技も世界レベルでやっているから、みんなで応援しようよ、チャンスさえあれば、できないと思われていた彼らがこんなにできる、できないと決めつけるのはおかしいでしょう、とみなさんにはそう伝えたい。熱い心と冷めた頭を持って活動していくことが、彼らにいちばんいいものを伝え、手渡していけるのではないかと思っています」
 ユニクロは二〇〇二年からスペシャルオリンピックス日本のオフィシャルパートナーとなっている。選手団やボランティアスタッフへのユニフォームの提供や、競技会の運営支援、従業員が大会ボランティアに参加することで、その活動を支援してきた。
「今回ご支援いただいた選手団のウェアを私もいろいろと着させていただきましたけれども、うらやましいほどの充実ぶりでした。スペシャルグッズを手にするだけで意識が高まるし、ユニフォームを羽織っただけで、よし頑張るぞという気持ちがふつふつとわいてくるのは、オリンピック選手も彼らも変わらないと思うんです。こうしたサポートは、アスリートだった人間として考えると、その意味が身にしみてわかりますし、まさに最高のサポートだと思います」
 アイダホ冬季世界大会に、ユニクロは、日本選手団八七名のユニフォームを提供。防寒性の高いベンチウォーマー、ヒートテックインナー、フリースなど九アイテムを寄贈した。
 スペシャルオリンピックスの意義は、アスリートだけにあるのではない。衣料の提供やボランティアとして参加することを通じて、知的発達障害のある人たちへの理解を深め、触れあうこと。その経験は人生をゆたかにしてくれる大きな喜びにあふれているのだ。

uniqlo_logo.gifユニクロは、スペシャルオリンピックスの選手団やスタッフへのユニフォーム提供のほか、従業員の大会ボランティアへの参加を通じてその活動を支援してきました。2008年度には、山形で開催された冬季ナショナルゲームや各地でのスポーツ体験キャラバンに3650着を寄贈。また従業員約80人がボランティアとして参加しました。私たちは、さらに多くの皆さまにスペシャルオリンピックスの活動が知られるようになることをめざしながら、世界で75万人を数えるボランティアとともに支援を続けてまいります。

「考える人」2009年夏号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 広瀬達郎(ポートレイト)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。