プレスリリース

2009年10月13日

「+J」の舞台裏 ~「考える人」2009年秋号~

~「考える人」2009年秋号(新潮社)より転載~

ジル・サンダー氏がデザインした「 +J 」コレクションの誕生まで

(株)ファーストリテイリング執行役員
勝田 幸宏(Katsuta Yukihiro)

ラグビーとファッションに夢中だった

(株)ファーストリテイリング執行役員 勝田 幸宏  もう三十年以上前になりますが、一九七六年、中学一年生のとき、雑誌「ポパイ」が創刊されました。アイビーやアウトドアなどアメリカのファッションがライフスタイルとあわせて紹介されていて、こんな世界があったのか、とすっかり夢中になってしまいました。高校生のときの生きがいは、ラグビーの部活動と、「ポパイ」で見つけた靴や洋服をアメリカから並行輸入で手に入れて、誰よりも早く学校に着ていくこと(笑)。「ポパイ」がぼくの教科書だったんです。
 そんなふうに大学卒業までずっと、スポーツとファッションがぼくの関心の中心でした。ですから就職のときも、洋服に携わる仕事をしたい、できれば社会人になってもラグビーをつづけたい、そう考えたんです。その答えが当時ラグビー部をもっていた伊勢丹でした。
 伊勢丹には社員として十二年間勤め、うち六年は本店や支店で販売員や売場のマネージャー、アシスタントバイヤー的な仕事をして、あとの六年はバーニーズニューヨーク本社と、東京のバーニーズジャパンの両方に出向していました。
 ニューヨークに行ったのは一九九二年ですが、当時のバーニーズは買っていただきたい顧客をはっきりとイメージしていました。たとえば、ばりばり働いて自分の給料でアルマーニやプラダを買うような女性たちです。
 バーニーズではブランドやデザイナーものの他に、シーズンのエッセンスをうまく取り入れた自主企画商品が光っていました。コストも利益も自分たちで設定できるこの企画商品が、ビジネスの根幹だった。それから大御所デザイナーが、バーニーズだけには限定の生地やデザインを提供していました。それは、バーニーズがリスクを恐れず、どこの店よりいち早く新しいデザイナーを紹介したからです。たとえばジョルジオ・アルマーニをアメリカで初めて紹介したのもバーニーズでした。ですからアルマーニも、特別の思いをもっていた。

ニューヨークで学んだこと

 さて九二年、二十八歳で意気揚々とニューヨークに向かったわけですが、出社一日目でわかったんです。自分はお客さんみたいなもので、戦力としてはまったく期待されていないと。居場所もないような二ヶ月がすぎたころ、ぼくの上司であるバイヤーが社長にひどく叱責されているのを目撃しました。なにしろ暇でしたから、それまでもコンピューターで販売データを調べてみたり自分なりに勉強していたので、社長があんなに怒るほど悪いのはなぜだろう、と分析してみたんですね。
 そのとき役に立ったのが伊勢丹の六年で身に着けた基本的な小売の知識や分析方法です。バーニーズのデータを見ると、まずいところがたちどころにわかった。それで上司に問題点を伝えると、売り上げがまたたくまに回復してしまったんです。それからは周囲の見る目もがらっと変わって、「ユキはどう思う?」と意見を求められるようになりました。上司のバイヤーがヨーロッパ出張にいくときも連れていってもらい、生地屋や工場をまわって非常に勉強になりました。
 九四年にアメリカから帰国することになって、ニューヨークで学んだことを最大限活かそうと、伊勢丹にはもどらず、バーニーズジャパンに再出向したのですが、その四年後、またアメリカにもどりました。ニューヨークでのエキサイティングな仕事やチャレンジさせてくれるフェアな環境が忘れられずにいたとき、ラルフ・ローレンから、商品開発に力を入れたいと声がかかったんです。ラルフはぼくにとって、「ポパイ」であこがれていたアメリカの神さまの一人ですから、その週末にはニューヨークに飛んでいました(笑)。
 結局ラルフ・ローレンでは、当初話のあった商品開発は聖域のようになっていてなかなか立ち入れない。全米の二十八店舗すべてをマーチャンダイズする仕事を担当することになりました。人生で初めて、明け方まで会社にいましたよ。それはそれでポジティブに考えていたんですが、一年半後、洋服から離れてみようと別の業種のアメリカ法人の社長に転職しようとしていた矢先に、マンハッタンの高級デパート、バーグドルフ・グッドマンの会長から電話があったんです。
 じつはぼくはバーグドルフが嫌いでした(笑)。リスクを背負って新しいデザイナーを紹介しようとするバーニーズとは、対極の、保守的な老舗でしたから。でも会ってみると彼らは、これまでのマダム層だけではなく、新しい顧客に来てもらわないとだめだ、そのために商品を抜本的に変えたい、と真剣に考えていました。やれるか、と訊かれたので、権限をもらえるならいろいろアイディアはある、といって、その週末バーグドルフを見にいったんです。バーニーズを十点満点の九点とするなら、これではどうみても三点だと思った。同時に、これは相当はっきり変えられると確信できたので、思い切って引き受けることにしました。
 結果は一年目からドラマチックといっていいほど売り上げが伸び、二年目には二倍になりました。でもこれはぼくでなくてもできたかもしれない。誰が気づいて先にやるか、ということだったと思います。
 九・一一同時多発テロ事件直後の、あまり多くを期待していなかった契約更新の席で、「満場一致で君を役員にすることにした」といわれました。アメリカが閉鎖的になっている時期に、日本人の自分をフェアに評価してくれた。いまでも忘れられないうれしい瞬間でした。そうしてバーグドルフに六年いるうち、売り上げも入社当時の三倍まで順調に伸ばすことができました。
 でも四十になったとき、自分に問いただしてみたんです。「引退までここにいて安定を求めるか? ラッキーな現在を踏み台にして、もう一度何かにチャレンジするか?」--答えは明らかに後者だったんですね。それで、具体的に何をするかイメージはないまま、新しいことをしてみたいと周りの人たちに話し始めると、ラグジュアリーブランドなどから声がかかりはじめました。

お客さまと品質がユニクロの強み

 じつはユニクロ社長の柳井正も、バーグドルフ時代のお客さまだったんです。バーグドルフでも、ぼくはよく売場に顔を出して、日本人のお客さまがいらっしゃると声をかけていました。あるとき日本人のご夫妻がみえたので、いつものようにお手伝いをして、「またおいでになることがあったら、買物の御用だけでなく、レストランでもミュージカルの予約でもなんでもお声をかけてください」と名刺をお渡ししたら、その人が柳井だった。フリースがブームのときもずっとアメリカにいたので、ぼくは柳井の顔も知らなかったんです。
 ちょうどその頃、世の中の流れが変わり始めたことを感じていました。ブランドの洋服や時計、車など物を所有することで満足感を得ていた人たちが、物から精神的なものへとシフトしてきていた。ロハスやスローライフといった言葉がはやりはじめ、ニューヨークでも、オーガニックフーズやヨガなどに注目が集まっていました。
 こうした新しい価値観に敏感な人たちこそ、つねにきれいでいたかったり、クールでいたかったりするわけですが、洋服に使うお金のプライオリティは下がるだろうな、というのがぼくの感じていたところだった。でも、彼らもほしがるような高いクオリティとセンスのものが安く買えたらどうだろう、そこに可能性があるような気がしていました。ラグジュアリーとは正反対のマスマーケットは、いまはまだイコール安売りといったイメージがあるけれど、やり方次第で将来的に大きな変化とポテンシャルがあるのではないか、と思ったんです。
 しばらくして、バーグドルフで知りあった柳井からユニクロに誘われたとき、ぼくの考えていた新しい可能性を実現できるのは、ここかもしれないと思いました。商品の研究をしてみると、デザイン面ではまだこれからだけれど、品質ではすでに十分な競争力があった。あとは今まで高い商品を買っていたような人にも魅力のある商品をつくれば、もっともっといけるんじゃないか、そう思って、二〇〇五年三月、入社を決めたんです。
 すぐにあちこちの売場に立ってみて、びっくりしました。こんなに質のいいお客さまが買ってくださっている、これこそユニクロの強みだと思った。ただ問題は、お客さまのほうがマーケットをよく知っていて、使い分けていたんです。スーツはバーニーズで買っても、白いシャツはユニクロでいいか、というふうに。そのころぼくがメンバーに始終言っていたのは、「ユニクロでいい、から、ユニクロがいいに変えようよ」ということでした。

ジル・サンダー氏とのコラボレーション

 二十五年前にユニクロが始めた高品質なベーシックを扱うというコンセプトは、じつは洋服でいちばん難しいんです。ベーシックというのは非常に奥が深くて、トレンド物の方がよほど楽です。一方、世界中のどんなブランドも利益の三〇%から五〇%はベーシックで、ドルチェ&ガッバーナでも、ビジネスの根幹は白のシャツと黒いスーツなんですよ。
 だからユニクロのねらいどころは非常に鋭い。でも難しいからほとんど誰もやっていないんです。唯一、この困難に取り組んできたのがジル・サンダーさんだなというのは、入社当時から思っていました。でもユニクロには、サンダーさんのような人と仕事をするためのインフラもカルチャーもまだなかった。
 ですからまずは、一緒に成長できるような若いデザイナーたちとのコラボレーションを始めました。それが今年まで続けているDI、デザイナーズ・インビテーション・プロジェクトです。フィリップ・リムやアレキサンダー・ワンなど、伸び盛りのデザイナーと一緒に仕事をして、非常にうまくいったと思います。そういう経験を積んでいくなかで、才能あるデザイナーと働く環境がだんだんに整ってきた。
 そして去年の春、究極はジル・サンダーさんだなと、また思ったんですね。ただ、このハードルはとてつもなく高い。しばらくファッション・デザインの現場から離れていたサンダーさんが、ふたたびデザインを始めるのではと注目されて、ありとあらゆる人たちがアプローチしているのは聞こえていました。
 ともかくやってみよう、と私たちもアプローチを始めたのですが、サンダーさんはそもそもユニクロをご存知なかった。まずはフィロソフィを知ってもらおうと、いろいろな商品をお送りするうち、昨年六月、ハンブルクのご自宅で話を聞いてもらえることになりました。ぼくも買いつけでご挨拶をしたことはあったけれど、助かったのは、仕事仲間に共通の知人が何人もいたことです。おかげでずいぶん早く心を開いていただけたように思います。
 あなたの話はけっこう面白いと言われるようになり、その後、柳井も交えてお会いして、十月には来日が実現しました。店舗に案内したり、九段の本部では、「ユキ、私はいろいろ知りたいから、あなたのアシスタントになってくっついて歩くわ」とおっしゃって、三日間ずっとごいっしょしました。その結果、ユニクロでやってみようという気持ちになってくださり、今年の三月、みなさんにお知らせしたように、正式な契約を結びました。
 サンダーさんがどうしてユニクロと、と聞かれるんですけれど、決め手になったのは、サンダーさんデザインのコレクション「 +J 」(二〇〇九年秋冬からスタート)のプロトタイプサンプルだったと思います。その生地と縫製を見てサンダーさんはびっくりしたんですね。中国製でここまでできるのか、と。それこそ、ユニクロの二十五年間の努力の賜物だったのです。
 いろいろ迷われたと思うのですが、まったく新しいファッションのステージを、ユニクロと一緒に築き上げられると感じてくださったのだと思いますね。商品にも、彼女の三十五年の知識、経験、思いのぜんぶを注ぎ込んでくれています。「 +J 」は、異次元です。初めてみたとき鳥肌が立ちました。同じ工場や素材を使っても、この人の手にかかるとこんなものができるんだ、と。ぼくはいま、ユニクロのさらなる可能性を強く感じています。

ファッションデザイナー、ジル・サンダー氏との取り組みにより実現するコレクション、ユニクロ「 +J 」の日本における発売が始まりました。2009年秋冬シーズンのユニクロ「 +J 」は、アウター、ボトムス、シャツ、カットソー、ニット、グッズなどを取り揃えています。日本国内では、ユニクロ銀座店、ユニクロ世田谷千歳台店などの大型店を中心とした約90店舗と、オンラインストアにて販売しています。取扱い店舗詳細については、ユニクロのHP上でご確認ください。

「考える人」2009年秋号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 菅野健児
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。