2009年10月13日
パリ グローバル旗艦店オープンの舞台裏 ~「考える人」2009年秋号~
~「考える人」2009年秋号(新潮社)より転載~
ユニクロビジネスをパリで実現する
ユニクロ・フランスCOO
真田 秀信(Sanada Hidenobu)
ロンドンを立て直す
ロンドンに呼ばれたのは、入社して七年目の二〇〇二年でした。ユニクロがロンドンに出店した半年後です。店がまったくうまくいっていない状態を立て直す命を受けてのことでした。
立ち上げのために採用されたロンドンの幹部は実績のある人ばかりで、たいへん優秀だと聞いていました。有名百貨店の部長とか、グローバル展開をする海外のSPAブランドの旗艦店元店長といった顔ぶれです。しかし、これがかえってよくなかったんですね。優秀な人が集まっても、ばらばらの集合体にすぎなかった。店に入ればそれは一目瞭然でした。Aブランドの元店長が担当する店はAブランドみたいな店になっているし、Bブランドの元店長がやっている店はBブランドみたいになっている。ユニクロがロンドンで何をやりたいのか、さっぱりわからない状態になっていたんです。
ロンドンの本部でもマーケティングに好きなだけお金をかけたり、ユニクロの本質を理解しないまま店ばかり増やして、店を出せば出すほど赤字になる状況でした。ロンドンに着任して一年後にはイギリスで二十一店舗まで拡大しましたが、思い切って五店舗まで絞り、もう一回ゼロからやり直そうという結論になりました。
会社も新しくして、雇用についても条件を刷新しました。利益が出ていないのですから、サラリーは当然、下がります。われわれ日本のユニクロビジネスをロンドンでも実現させる--このミッションにコミットできる人だけを募集し直したんです。この段階で当初いた幹部はほとんど辞めていきました。
残ったのは、現場でフルタイムで働いてくれていた人たちでした。彼ら、彼女らは「この会社で自分も成長できるし、会社も成長するだろう」と信じてくれた人たちだったんです。店長の経験はなくても志は同じだということで店を任せ、彼らとともにロンドン市内に絞った五店舗で出直すことにしたというわけです。
下手くそな英語も気にしない
ぼくは当初、英語は何もしゃべれない状態でした。初めのうちは英語の堪能な新入社員を通訳としてつけてもらったんです。ただ費用対効果が合わないし、ずっとこんなやり方で続けるわけにもいかないので、「現地の人と現地の言葉で戦うことができるぐらいの英語力をつけたい」と二ヶ月休暇をもらって、ホームステイしながら英語の学校に通わせてもらいました。
結局、二ヶ月かけてもうまくはならなかったんですが、同じクラスのイタリア人やスペイン人、ブラジル人が初日から英語をしゃべってるんで、なんで学校に来るんだろうって謎だったんですね。ところが耳が慣れてくると、彼らの英語はでたらめで、ポルトガル語やイタリア語がちゃんぽんで入っているのがわかってくる。日本人は完璧な英語がしゃべれないと心理的に口をつぐんでしまうんですね。それがわかってからは吹っ切れて、下手くそな英語でもしゃべろうという気持ちに切り替わりました。
復帰して担当したウィンブルドンの店では、遅刻、無断欠勤、音楽を聴きながら働いている人とか、商品を投げて遊んでいるような店員にはユニクロの基準を何度も説明して、それでも理解してもらえない人は全員やめてもらって、新しい人を自分で採用して、挨拶、掃除の基準、
商品の並べ方までオペレーションを徹底的につくり直したんです。それをやっただけで、ウィンブルドン店の売り上げがイギリスのユニクロで二番目になったんですね。スタッフにとっても数字は世界共通の言語ですから、この日本人のボスはちょっと違うと認める空気に変わった。イギリスは日本と同じ島国なので、けっこう人の気質も似通っていて、シャイなんです。思っていることをあまり口に出して言わない。だから人間関係を築くのに時間がかかるのですが、いったん信頼関係ができれば、意外なほどスムースにいく、ともわかった。
他の店舗についても、レイアウト、在庫管理、マーケティングを担当する同じ志をもった日本人駐在員がいましたので、彼と一緒に、売り場のつくり方や商品の見せ方、在庫の持ち方、スタッフのトレーニング、といった基本的なことを、日本と同じように毎日、徹底して行うことにしました。
日本で当たり前にやっていることを当たり前に続けたら、その後の半年で、やっと損益分岐点が見えるようになった。商品ではデニムがヒットして、続いてカシミヤのヒットも続き、明るい材料がだんだんと増えていきました。
ロンドンがなんとか軌道にのった頃、今度はアメリカに転勤です。営業責任者としてニュージャージー三店舗をオープンしましたが全く売れませんでした。
ニュージャージーには地元のショッピング・モールがあって、買い物はモールのなかにある馴染みの店にしか足を運ばないんですね。ユニクロといっても誰も知らないし、ユニクロの品質の良さも伝わらない。彼らにユニクロで買ってもらう理由を提案できていなかったんです。
ところが、マンハッタンのソーホー地区に三ヶ月間限定のアンテナ・ショップを開いたら、これが飛ぶように売れてしまったんですね。ソーホーはクリエイティブな人やファッション関係の人が多くいる地域なので、新聞や雑誌の記事に取り上げられたり、口コミでも広がって、日本のユニクロがマンハッタンでいまいちばんホットなブランドだ、と認識されたのが大きかった。ニュージャージーとこんなにも違うのかと驚きました。
一年後には、ソーホーにユニクロの旗艦店をオープンさせるという話が持ち上がりました。佐藤可士和さんのディレクション、片山正通さんのインテリアデザインで、ソーホーに巨大な旗艦店をつくると。ぼくもこのプロジェクトの営業責任者として準備を開始しました。これがまた、大変でした。
ニューヨーク旗艦店の苦労
ニューヨークの旗艦店のデザインは圧倒的にすばらしいものだったんですが、わたしたち営業担当が店を引き渡されたのはオープンの五日前、実はまだ工事も終わっていなかった(笑)。そんな状況で、アメリカ人のスタッフと二十四時間体制で準備にかかりました。約千坪の店に、約二十万点の商品をパッケージから品出しして、しかも限られた時間のなかで商品棚にきれいに並べながら、新しい店のオペレーションを新しいスタッフに習得してもらう。これはかなり難度の高い作業です。
完成した店舗の清潔感ある空間もそうですし、佐藤可士和さんが細部にこだわった新しいユニクロのロゴも強いインパクトがあったので、たとえば商品はひとつひとつきれいに畳むとか、店内にはゴミひとつ落ちていないように、というわれわれのこだわりを伝えるのに、ヴィジュアル的な説得力がありましたね。ポリシーは言葉だけでなく、こういうことでも伝わるんだと新鮮な思いがしました。
しかし最初のうちは、スタッフとのコミュニケーションがうまくいかなかった。自己主張の強いスタッフが多くて、遅刻しても「目覚ましが鳴らなかったんだ」と平気で言い訳する。ひどい場合には、オープン前に人手不足で採用したスタッフが、大混雑にまぎれて商品をくすねる事件も起こったりと、日本では考えられないトラブルもありました。落ち着くまでは、けっこうジャングル状態でしたね(笑)。
オープンから三ヶ月、何とか繁忙期を乗り越えて翌年の二月に、日本に帰ることになりました。
ロンドンから数えると海外に五年いたことになります。最後の一年は、千坪級の巨大店舗で、スタッフを五百人かかえてスタートするという経験ができました。ぼくにとってソーホーは、ひとつのターニングポイントになったと思っています。
世界一厳しい、日本のお客様
帰国したときは、ちょうど世田谷区の千歳台に、日本で二番目の千坪級の店がオープンするというタイミングでした。
日本のお客様は世界一厳しいかもしれません。販売員のちょっとした言葉遣いとか態度でクレームになる場合があります。だからこそ、世田谷千歳台店では、「あの店にはあの店員さんがいるから、買おうかな」と思っていただけるような店にしたい、と考えたんです。商品自体の魅力も大切ですけれど、最終的にお客様は人につくんじゃないか、とぼくは思っているんですね。
世田谷千歳台店周辺は、半径二キロ圏内に五万人ぐらいが住んでいます。その地域の方たちに愛される店をつくるにはどうすればいいか。とくにオープン直後は交通渋滞や人が集まることでいろいろご迷惑をおかけするので、まずはご近所百軒ぐらいにご挨拶にうかがいました。オープン前日には地域の方だけに先行してお店をあけ、特別価格で買い物をしていただきました。オープン準備期間中は毎朝二十人ぐらいスタッフを出して、地域の掃除にも行ってもらいました。
宣伝について言えば、セスナ機を飛ばしてビラを撒いたらどうだろうとか、ジェット機を飛ばしてユニクロのロゴを空に描いたらどうだろうとか、いろいろ提案したんですが、「真田は海外にいる間におかしくなった」と却下されました(笑)。
海外を経験して思ったのは、日本の販売スタイルって、真面目すぎるところがあるんですね。商品はクオリティが高いわけですから、もっと自信をもって気軽にお客さんに提案してもいいんじゃないか。ソーホーの販売員は「それすごく似合うと思うよ」とか「ぼくも同じもの、持ってるんだ」とか、押しつけがましくない感じでフレンドリーに話しかけることができるんですね。そのままそっくりでなくても、その姿勢や精神はもっと真似していいと思うんです。
私の提案で採用されたのは、千歳船橋駅から店まで無料のシャトルバスを運行することでした。いまでも土日と祝日には定期的に運行しています。
地域の方に愛される店という目標は、達成できたと思います。客単価がユニクロの中でも上位に入るほど高く、お褒めの言葉の数も全国でいちばん多かったんです。
フランス人を鍛える
今年の二月に、パリの旗艦店を担当してくれと言われました。いまいちばん力を入れて取り組んでいるのは、現地のフランス人マネージャーの教育ですね。最初に採用した六人は、全員日本に呼び寄せて、二ヶ月間トレーニングし、日本とはどういう国か、日本人とはどういう人か、その中でユニクロはどういう会社で何を目指しており、ユニクロのサービスとはどういうものかなどを理解してもらい、その上で皆さんと一緒にパリで何を実現したいのかをみっちり学んでもらいました。六人中五人はフランス人なんですが、パリの三越にいたり、奥さんが日本人だったりで、三人は日本語がしゃべれるんですよ。ひとりの日本人はフランス人と結婚しているので、フランス語が大丈夫。英語は全員が話せます。
最初に研修したのは、千歳台店でした。ここで、挨拶の仕方、ゴミの拾い方から商品の畳み方まで徹底的に身につけてもらいました。お客さんの目を見て笑顔で挨拶する。商品はもちろんお札やレシートもすべて両手を使って手渡す。大きな店のシステムもひととおり学んでもらいました。
一ヶ月後には、メガストアの新宿西口店がちょうどオープン直前だったので、ここに入ってもらい、完成したばかりの何もない店舗へ什器が届き、資材が搬入され、次には商品が毎日千単位で届いて、その品出しをするという経験をしてもらいましたし、三百人いるスタッフの指導もしてもらったんです。もう千歳台で一ヶ月経験しているんだから、きみたちのほうが先輩なんだと。きみたちはお客さんで日本に来てもらっているわけじゃない、マネージャーとして来てるんだから、どんどん教育してくれ、動きの鈍いスタッフがいたらどんどん動かしてくれと。パリ旗艦店のオープンを想定して、すべてを経験してもらおうと思ったわけです。
パリでのスタッフの採用も終わりました。あなたたちには将来、店長になってもらいたいので、地域最高時給で採用します、オープンの三日間は全員十時間働いてもらうことになりますが大丈夫ですか、というやりとりをしました。とにかく日本のユニクロのやり方で働いてもらうし、コミットする働きをしてくれれば、きちんと昇給するし、役職にもつける、ということをしっかり説明しています。
オープン時には、なるべく多くのコレクションを見せたいと思っています。ジル・サンダー氏がデザインした「 」はもちろん、ユニクロというブランドのすべてを見渡せるものにしたい。それは佐藤可士和さんのディレクション、片山正通さんのインテリアデザイン、商品構成、サービス、すべてです。これが東京です、これがユニクロですと全身で伝えて、そしていつか、パリでもっとも愛されるブランドになりたい、と願っています。
ニューヨーク、ロンドンに続く世界で3番目のグローバル旗艦店となる「パリ オペラ店」がオープンしました。グローバル旗艦店とは、現時点での最高のユニクロを表現する「世界へ向けてのショーケース」となる店舗です。世界のファッションの中心地パリにグローバル旗艦店を立ち上げることは、グローバルブランド化に向けたユニクロにとって大きな1歩となります。またオープンと同時にファッションデザイナー、ジル・サンダー氏との取り組みより生まれた新コレクション、ユニクロ「 」の販売も開始しました。
「考える人」2009年秋号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 菅野健児(ポートレイト)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。