2010年01月13日
ユニクロ所属 国枝慎吾選手の舞台裏 ~「考える人」2010年冬号~
~「考える人」2010年冬号(新潮社)より転載~
自分のなかの覚悟は揺るぎませんでした
プロ車いすテニスプレイヤー
国枝 慎吾(Kunieda Shingo)
車いすを使うようになったのは、小学校四年生のときでした。まだ小さかったし、それほど深く物事を考えていなかったので、みなさんが想像されるほど絶望的な気持ちではありませんでした。いままでどおりには体育ができなくなっちゃうとか、大好きだった野球ができなくなっちゃう、というのはショックでしたけど、それはなんでもスポーツを中心に考えていたからで、毎日の生活について、将来的なことまで含めて悲観的になっていたわけではありませんでした。
もともと負けず嫌いなんです。自分より負けず嫌いな人を見たことがない、というぐらい(笑)。小学校三年のときのマラソン大会もそうでした。勝ちたい一心で、学校が終わったあと毎日走って練習しました。コースを考えながら、「この坂で一気に抜いていこう」とか「ここはスパートかけるけど、ここはちょっと抑えめに走ろう」とか、それなりに作戦も練ったりしていたんです。小学校の三年生ではあっても、かなり真剣に勝つことにこだわっていました。結果は三位。悔しかったですね。次は絶対に勝とう、と思ったのを憶えています。
次の年、病院に入院していたときは、「早く学校に行きたいな」という気持ちはありましたけど、車いすの生活がどういうものか、あまり想像してはいませんでした。移動が車いすになるだけで、どうにかなるだろう、ぐらいにしか思っていなかった気がします。
六年生のとき、もともとテニスをやっていた母が、車いすテニスを教えているクラブが近くにあると友だちから聞いてきて、ここTTC(吉田記念テニス研修センター)に半ば無理やりに連れてこられたんです。テニスが好きだったわけではないし、ルールも知らないし、野球をやっていた自分から見るとちょっと軟弱なスポーツというイメージで、しぶしぶ来た記憶があります。
ところが、目の前で車いすテニスをプレーしている選手の様子を見ているうちに、何だかおもしろそうだなと思い始めたんですね。やってみようかな、という気持ちになった。TTCは自宅から車で三十分と近かったですし、当時の日本で、車いすテニスの指導を本格的にやっていたところは他にはまだなかった。本当に奇跡的なほど条件が揃っていたんですね。TTCが一時間も二時間もかかるような場所にあったら、テニスを始めていたかどうかもわかりません。
僕が初めて抱いた夢
地元の柏市にある麗澤高校に入った一年生のとき、TTCのすすめで初めて海外遠征に参加しました。そこで見たプレーには凄い衝撃を受けました。当時、世界ナンバーワンだったオランダのリッキー・モーリエ選手のプレーが、もう鳥肌が立つぐらい、すごいなと。なんて格好いいんだろうと思ったんですね。技術にしても、パワーにしても、圧倒的でした。そんな彼といつか同じコートでプレーしてみたい--車いすテニスをやりながら、僕が初めて抱いた夢であり、それが目標になりました。
五年後には、そのモーリエ選手と試合する機会に恵まれました。ところが彼は、その頃メンタル面がかなり不調で、ランキングも下降していました。テニスから離れていた時期もあったようで、調子がよくなかった。結局僕はその試合に勝利したのですが、彼の技術やパワーの凄さを知っていただけに、メンタルなものがいかに大きい影響を与えるか、教えてもらった気がします。技術だけでは勝てない、と知りました。
技術といえば、バックハンドのトップスピンが僕の代名詞のようによく語られていますけど、実はもう誰でもやっているんです。僕がやり始めたら、短期間のうちにみんな使い始めました(笑)。技術というのは、それがすごく有効だと気づけば、誰でもやらないわけにはいかないものなんです。それを身につけなければ勝てないと全員が感じますから。
バックハンドのトップスピンは誰でもできる。では、僕のどの部分が他の選手よりも優れているのかというと、それはフットワーク、車いす操作の速さだと思います。その点で自分より優れている選手は、見たことがないですね。そこが自分のテニスのいちばんの支えであり、軸になっています。素早く動けなければ、いいショットは生まれません。そして、車いすの操作だけは、真似しようとしてもできないところがあるんです。
こればかりはセンスだと思います。小学校六年の十一歳のとき、テニス用の車いすに乗ってみろと言われて、初めて乗って動かしてみたその瞬間から、僕はその場にいた誰よりも速く動かせた。健常者の方だって、最初から走るのが速い人と遅い人がいるのと同じです。センスは生まれつきのもの、としか言いようがない。
車いすテニスを始めたばかりの子がいたとして、最初の十こぎぐらい車いすさばきを見れば、速いか遅いかはわかります。もちろんその能力は練習で伸ばすことができる。だけど、最終的にはセンスのあるなしで差がつくと思います。
フットワークには、相手の動きを見て判断する予測力も含んでいます。僕も、相手がどこに打ってくるか、七割ぐらいはわかったうえで動いています。でも逆をつかれたら、どれだけ車いすさばきが速くても拾えない。それぐらい予測力は大事なんです。もちろん自分の打つボールにも情報をこめる。つまりここに打っておけば、こちら側に返ってくる可能性が高いと判断して打つ。打ったら、予測したところにいち早くたどりつく。そうすれば相手に時間を与えません。速く返球できれば、相手は動けない。テニスというのはからだだけではなく、頭もかなり使うんです。試合が終わると、頭もぐったり疲れていることが多いですね。
金メダルをとったあとしかない
今年(二〇〇九年)の四月からプロになりました。試合以外の取材や仕事をひとりではさばき切れなくなり、こういうことはマネジメントのプロに任せないとテニスにも悪影響が出てくると感じ始めたこともあります。けれどやはり最大の理由は、車いすテニスだけで生活してゆける選手になりたい、ということでした。昨年までは母校の麗澤大学の職員として勤務していました。そうでなければ、経済的にテニスを続けることはできなかった。
世界のトップテンに入った頃から、たとえば三十五歳ぐらいでテニスを引退したら、そこで新しい仕事を見つけなければならないというのが不安でした。健常者とまったく同じようには仕事はできませんから、能力も成果も低く見られてしまうのは明らかです。テニスを他の仕事で支えるのではなくて、プロ野球やJリーグと同じように、車いすテニスだけで仕事として成立させたかった。それを日本で初めて実現できれば、車いすテニスの世界ももっと活性化するし、レベルも高くなる。新たな、そしてさまざまな可能性が拓かれていくでしょう。
プロになるチャンスは、北京パラリンピックで金メダルをとったあとしかないだろうと考えていました。その意味でも、北京ではどうしても金メダルをとりたかった。念願の金メダルを手にして、プロでやっていく覚悟もできました。プロになることについては、実は賛否両論あったんです。母はどんどんチャレンジしなさいという人ですから賛成してくれましたが、父は結構慎重なところがあるので、大丈夫かと。麗澤大学の職員として、今は生活の保障がある。それを捨ててまでプロになるのがほんとうにいいのか。そういう気持ちがあったのだと思います。心配してくださった人は他にもいらして、アドバイスはありがたくいただきましたが、それでも自分のなかの覚悟は揺るぎませんでした。
マネジメントをしてくれることになったIMGは、テニス、ゴルフ、フィギュア・スケートなど個人スポーツに強い会社です。日本国内だけでなく世界中のトップアスリートを数多くマネジメントしています。他の会社からも申し出をいただいたんですが、以前に社長と名刺交換をしたこともあり、僕なりにいろいろと調べてみて、やはりここだと思ったんですね。北京パラリンピックが終わってまもなく、自分からIMGに連絡をしました。何回かミーティングを重ねて、僕の希望どおり、正式にマネジメント契約が成立しました。
麗澤大学が引き続きスポンサーのひとつとしてバックアップしてくれることになったのも感無量の出来事でした。ほんとうにありがたいことです。そして何より大きかったのは、プロの選手として、ユニクロへの所属が決まったことですね。契約してから知ったことなんですが、ユニクロはCSR(企業の社会的責任)活動に大変積極的で、企業としての姿勢もグローバルなものだと感じます。たとえば雇用についてみても、健常者と障害者を必要以上に区別しないで対等に扱っています。こういう考え方は、海外にいけば当然のように受け入れられ実行されていますし、障害者スポーツの世界も実はまったく同じです。そういう企業が僕のスポンサーになってくれたのは二重の意味で心強いことです。
賞金だけではまかないきれない
経済的な問題は、自分のなかでずっと大きかったですね。世界のナンバーワンになることができたのも、金メダルをとることができたのも、大学職員として働きだしてからなんです。自分で稼ぐことができるようになってから、成績が伸びていった。
大学生の頃は、両親に金銭的な負担をかけていたため、海外遠征もどこか心の底から楽しむことができなかった。賞金はすべて両親に渡していましたが、遠征費用は年間で三百万から四百万ぐらいかかりますから、賞金だけではとてもまかないきれません。僕の場合、いまは年間十三ほどの大会に出ているのですが、それでも出場は少ないほうです。何しろ日本は遠い。
海外遠征にはふだん使っている折りたためる車いすとテニス用の車いす、これは折りたためないものなんですが、このふたつを持って行きます。それに加えて荷物がふたつ。総重量は六十キロから七十キロぐらいになります。航空会社によっては車いすの超過料金を免除してくれるところも多いのですが、海外では免除してくれない場合もあって、そのときは「これは僕の足なんだ」と説明し、主張します。でも駄目となったら駄目ですね。
車いすで搭乗する場合はボーディング・ブリッジから入るのであれば問題ないのですが、タラップだと職員の方に上げてもらったり、階段を上り下りする機械で一段ずつ上がっていくことになります。でも大変なのはフライトの時間ですね。長時間のフライトは本当に苦痛です。みなさんも同じでしょうけれど(笑)。トイレは問題ありません。飛行機には普通、車いす用に少し広いトイレも用意されていますが、僕は普通のでも使えますから大丈夫。
ヨーロッパやアメリカの大会の場合、それぞれの国の選手は、移動の時間にしても費用にしても、さほど負担なく参加できます。日本にいる僕はそうはいきません。去年までは健常者のテニスのグランドスラム(全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープン)と車いすテニスのグランドスラムは連動していなかったんですが、今年からやっと統一されて、賞金も優勝した場合百万円ぐらいまで出るようになった。他の大会だと優勝でも二十万円程度です。
フランス、オランダ、イギリスはテニス大国ですから、車いすテニスの環境も進んでいると感じます。大会に出場するような実力のあるフランスの選手はほとんど全員がプロですね。スポンサーもたくさんついています。オランダの場合は、選手のランキングによって、一年のうち三ヶ月から四ヶ月の海外遠征中の給料は、企業が払うのではなく、国が補償するというシステムがあります。
プロになっていちばん変わったのは、勝たなければ、自分自身の力で生活できなくなってしまう可能性が出てきた、ということですね。プロのスポーツ選手であれば誰しも意識することだと思いますが。逆にそれが自分自身を駆り立てる原動力にもなっています。試合中の心境も変わりました。今まで自分はこれ以上なれないぐらいハングリーだと思っていた。世界でいちばんハングリーだと。ところが、プロになることでそのハングリーさがさらに増したんですね。プロ転向後初めてのグランドスラムが六月の全仏オープンだったのですが、実はそのとき非常に調子が悪くて、決勝はかなりきわどい試合展開でした。それでもプレーしながら、絶対勝ちたい、何が何でも勝ちたい、絶対負けないぞという気持ちが心の底からふつふつとわいてきて、それが優勝につながった。気持ちだけで勝ったような試合でした。全仏で、プロになったことを本当に実感できた。
二〇一〇年の初戦は、グランドスラムのひとつ、全豪オープンです。もちろん目標は優勝です。いまは全米オープン(二〇〇九年九月、シングルス優勝)で痛めた右肘の崎復を待って、体調を整えているところです。一刻も早く練習を再開して大会に備えたいと思っています。
ユニクロは、車いすプロテニスプレーヤーの国枝慎吾選手と所属契約を締結しています。北京パラリンピックでの金メダル獲得、グランドスラムタイトル獲得は12、世界ランキング1位と、世界No.1のグローバルアパレルリテーラーを目指すユニクロにとって、真に共感できる存在です。また、国枝選手にはユニクロの持てる技術力を駆使したゲーム用ウエアを開発、提供して参ります。国枝選手の競技とそのチャレンジ姿勢に刺激を受けながら、私たちは世界を舞台に、さらなる高みをめざしてまいります。
「考える人」2010年冬号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 眞野博正(全米オープン)・菅野健児(ポートレイト)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。