プレスリリース

2010年07月15日

柳井正氏に聞く[後篇] ~「考える人」2010年夏号~

~「考える人」2010年夏号(新潮社)より転載~

想像力の必要
無駄な時間の効用

ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長
柳井正(Yanai Tadashi)


 私は毎日、夕方五時に退社して、帰宅すると家族といっしょに食事をし、本を読み、音楽を聴く時間を大切にしています。それが何よりのたのしみだと言ってもいい。そのような時間から得られるものが直接、経営に役立つわけではありません。それでも、想像力の働く世界に身を置くことが、自分にとってはどうしても必要ですし、そういうものがない世界は、ちょっと考えられませんね。
 私は学生時代から理数系がまったく苦手でした。今でも計算は苦手です。どちらかといえば、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いているときが、いちばん気持ちが落ち着きますし、頭も働く。芸術的なものから受け取る何かが、私の表からは見えない深いところで、原動力として働いている気がします。

アメリカに憧れた子ども時代

 私は小さい頃から、想像力の世界に身を委ねるのが好きな子どもでした。山口県宇部市に生まれて、ずっと商店街に住んでいたんですね。親父の経営する紳士服店の一階が店舗、二階が住まいでした。
 目の前に本屋があって、子どもの頃は漫画ばかり読んでいました。『鉄人28号』、『鉄腕アトム』、『おそ松くん』、『カムイ外伝』、『ゲゲゲの鬼太郎』……毎日のように本屋に入りびたって、立ち読みしてましたね。ときどき店の人に怒られたりして(笑)。今の子どもと違って、当時の子どもが楽しめるものなんて漫画ぐらいしかありませんでしたからね。
 宇部市は東京にくらべたら本当に田舎です。学校の行き帰りには山もあれば川もある。下校の途中で遊ぶわけです。川では鮒を捕りました。釣るんじゃなくて、ばしゃばしゃ小川に入っていって捕る(笑)。雑木林に入ってクワガタやカブトムシも捕る。木から落ちたこともあります。鮒捕りに夢中になって、川岸に鞄を置いたまま、それを忘れて帰ってきてしまったこともありました。
 そんなのんびりした日々でしたけど、一九五〇年代後半から六〇年代の前半にかけての時代でしたから、日本は高度経済成長の真っ只中でした。世の中がどんどん物質的な豊かさのなかに入っていく。その空気を肌で感じていました。
 カラーテレビ、自動車、クーラーは「3C」と言われてましたね。親父はそういうものが好きですぐに導入していました。最初の頃はまだテレビが珍しくて、近所の人まで家にあがりこんで、一緒に見てましたね。『お笑い三人組』とか、力道山のプロレスとか。
 アメリカの輸入ドラマが好きでよく見てました。『パパは何でも知っている』、『名犬ラッシー』、『ララミー牧場』、それからスティーブ・マックイーンが出ていた『拳銃無宿』、クリント・イーストウッドの『ローハイド』、『サンセット77』、『ルート66』……つぎつぎ思い出しますね。
 いい時代のアメリカです。ドラマに出てくる郊外の家なんて、ほんとうに格好いいんですよ。こういう暮らしがあるのかという。だからやっぱり憧れていたのはアメリカで、東京に行きたいみたいなことは、考えませんでしたね。
 親父が店の隣に映画館を持ってたものだから、映画はいつでも見に行くことができたんです。ほんとうは学校から許可の出た映画しか見に行ってはいけなかったんだけど、デヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』なんか、中学生の頃に許可なしで、親父の映画館で見ました。今でもありありと思い出せるぐらい強い印象が残ってます。
 うちの映画館だとはたぶん知らない学校の先生が、映画館の椅子に先に座っていて、「あ、柳井、おまえ、なんでここにいるんだ?」「いや、ちょっとこの映画、見たいんで」なんて妙なやりとりをして、でもいい映画でしたから、あとから先生に文句を言われないですんだんです(笑)。

VAN、ロック、ジャズ

 高校時代はあんまりいい思い出がないですね。共学でしたけど、男女別々のクラス。進学校だったものだから受験勉強ばっかり。話題の中心も全部勉強だった。国立大学を目指すのが当然で、あんまり勉強しないのが早稲田や慶應に行く。そういう学校だったんです。
 一年生の最初の成績表なんて家に持って帰りたくないぐらいひどくてね、帰宅途中で落としちゃったんですよ。落とすべくして落としたという(笑)。ところが誰かが親切にもそれを拾ってくれて、学校の先生に届けてくれたもんだから、家に連絡がすぐに入って、学校に取りに行ったんですよ。最悪です。恥ずかしかった。クラスで後ろから五番目ぐらいの成績でした。
 興味があったのはファッションと音楽です。宇部市の高校生で、VANのボタンダウンのシャツを一番最初に着たのは、間違いなく僕だったと思います(笑)。チノパンとかバスケットシューズも同じ。学校に指定外のシャツとか着ていくのは禁止だったんですけど、ボタンダウンのシャツなんて誰も着ていなかったから、教師には気づかれもしなかった。
 音楽はビートルズ、ローリングストーンズ、クリフ・リチャード……いろいろ聴きましたね。住み込みで働いていた若い人がジャズのレコードを聴いていたせいで、高校生の頃からジャズも聴き始めてました。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズとか。同時に、日活映画の石原裕次郎、赤木圭一郎、小林旭のレコードなんかも並存してました。そういう時代ですよね。

一対一の対話

 早稲田大学に入学したのは一九六七年です。大学紛争が始まっていた頃でした。やがて一年半ぐらい大学が封鎖されて、学校にも行けなくなった。だから大学ではほとんど勉強してません。
 東京の印象はですね、高田馬場から早稲田に行く町並みがごみごみと汚くて、最初は「汚いなあ」という印象(笑)。でもすぐそれに馴染んでしまうと、あっという間に居心地がよくなってしまいましたけど。
 大学が紛争状態でしたから、下宿で麻雀ばっかりやってました。それからジャズです。大学時代にはひたすらジャズを聴いていた。ジャズ喫茶はほとんど行かず、ひとりで下宿で聴くのが好きでしたね。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス、それからボーカルも好きでした。エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、クリス・コナー、フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、メル・トーメ、リー・ワイリー……歌が上手い人の音楽がとにかく好きでした。
 仕送りのかなりの部分をレコードにつぎ込んでました。飯も食わずに節約してレコードを買うこともあった。月に十枚ぐらいは買っていましたね。もうロックは聴かなくなっていて、ロックを聴くヤツをバカにしてた(笑)。ロックは不特定多数に叫ぶ感じがなんだかうるさい気がした。一対一で対話するようなジャズが好きでした。それは今も同じです。
 大学紛争にはまったく興味がなかった。学生運動をやってる連中の言うセリフが全部一律なんです。台本があるみたいに。頭が硬直化しているとしか思えなかった。世の中の現象は変化するものだし、振れ幅もある。単純化してしまったら見えなくなることのほうが多いでしょう。それを決まり文句で片づけようとするんだから、どだい無理なんですよ。
 デモに行って、石を投げるのも興味本位の野次馬が多かった。当時の映像を見ていると、大学生は誰もかれもが運動に加わっていたように錯覚しがちですけど、そんなことはないんです。本当はノンポリの学生のほうが多かったと思う。
 学生時代はいろんな本を乱読しましたけど、印象に残ったのは、リースマンの『孤独な群衆』、ガルブレイスの『ゆたかな社会』、『新しい産業国家』ですね。世の中が今どうなっているのか、これからどうなるのか、本を読みながらぼんやり考えていたような気がします。

無駄な時間の効用

 大学時代の経験でいちばん大きかったのは、二年生の夏休みから百日間ぐらいをかけて世界一周したことです。親父に世界一周をしたいと言ったら、飛行機の切符を買ってくれた。当時でも二百何十万ぐらいかかる旅でしたから、よく行かせてくれたと思います。ありがたかった。このことについては、よくお金を出してくれたなあと今でも感謝しています。
 最初は横浜から船でハワイのホノルルに行くんですね。それから飛行機でサンフランシスコ。バスでロサンゼルス、アリゾナ、飛行機でメキシコ、フロリダ、バスでニューヨーク。ニューヨークからデンマークに行って、フランス、スペイン、スイス、トルコ、エジプト、インド、香港、そして日本に帰ってきた。
 アメリカに行って思ったのは、堕落してるな、ということでした。ジョンソン大統領がグレイト・ソサエティ政策を唱えていたけれど、いったいどこが「グレイト」なんだと思いました。みんな金に毒されている感じがあって、安っぽいんです。アメリカの学生は、アメリカがこんな感じになっているからこそ反抗してるんだろうな、と感じました。ベトナム戦争で人心も荒廃していたし、ろくな世界じゃないと思いましたね。
 ロサンゼルスなんかビルも道路もクルマもバカでかい。でも空虚なんですよ。どこもかしこもペンキ塗り立てみたいで、家もハリボテに見えましたね。テレビドラマで見ていたアメリカなんて、どこにもない感じがした。でもニューヨークに行ったら、ちょっとホッとしたんです。古い街並みが残っていて、何か落ち着きましたね。だからニューヨークはいまでも好きな街ですよ。
 大学からはほとんど何も得るものがなかった。それでも、世界一周の旅と、この頃に聴いていた音楽、読んだ本、見た映画が自分のなかに何か核のようなものをつくったのは間違いないと思っています。無駄な時間をいっぱい過ごしたようですけど、あの頃に今の自分がかたちづくられたんじゃないかと思いますね。
 だけど三、四年生の頃は、働きたくないなあとばかり思ってました。就職もしたくない。だけどね、働くことに意味を求めてもしかたないんです。意味なんか何もないんですから(笑)。働くということは、実際に働くことで発見するしかない。だから大学生の頃は、まだ働くことについて、私は何も知らなかった。そういう時代でした。

Yanai Tadashi
1949(昭和24)年2月、山口県宇部市生まれ。
早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。ジャスコを経て、
1972年、宇部市で父親の経営する小郡商事に入社。
1984年、カジュアルウェアの小売店「ユニクロ」の第1号店オープン。
同年、社長に就任する。
1991年に社名をファーストリテイリングへ。
2010年、全米小売業協会(NRF)の国際部門賞を受賞。
現在(2010年6月)、代表取締役会長兼社長。

「考える人」2010年夏号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 菅野健児
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。