プレスリリース

2011年04月19日

プロテニスプレイヤー スポンサー契約の舞台裏~「考える人」2011年春号~

~「考える人」2011年春号(新潮社)より転載~

テニスを楽しみたい。
そして、世界一を目指します。

プロテニスプレイヤー
錦織圭 (Nishikori Kei)

 世界で勝負したい――最初にそう思ったのは、小学校六年生の時です。二〇〇一年五月の全国選抜ジュニア選手権、七月の全国小学生大会、八月の全日本ジュニア十二歳以下と一年間で三つの大会に優勝、全国制覇三冠は史上五人目だそうです。「敵がいない」なんて言うと語弊がありますが、ちょうどその時期に「修造チャレンジ」(全国からトップ選手を集めて行う「修造チャレンジトップジュニアキャンプ」)という松岡修造さん主宰のテニス合宿に参加して、技術面にとどまらないさまざまなことを教えられました。十一月には修造さんのコーチだったボブ・ブレット氏を招いてのキャンプがあり、練習試合で「修造チャレンジ」一期生の高校一年の男子選手に勝ったことも自信になりました。世界が見えたというか、世界を意識した、それが最初のきっかけかもしれません。
 中学に入る直前、アメリカへ行くための選考会に出て、秋に一ヵ月半ほどアメリカで過ごしました。翌年春に、「盛田正明テニスファンド」(ソニー生命元会長で、日本テニス協会会長を務める盛田正明氏が私財を投じて将来有望な選手をサポートする奨学金制度)の強化選手に選んでいただき、九月からアメリカ・フロリダ州にあるIMGニック・ボラテリーテニスアカデミーに留学することになりました。
 両親がその時に何を思ったのか、当時は分かりませんでした。心配はもちろんあったでしょうし、中学生を一人でアメリカへ行かせるのは親にとって簡単な選択ではなかっただろうと今なら思います。最近になって父の、「自分の子ではあるが、自分たちがこの子の親になったことでマイナスになってはいけないと思った」「どちらかというと、圭を出すことでほっとした気持ちのほうが大きかったかもしれない」という談話を読みました。何も言わず送り出してくれたことに、とても感謝しています。

「エアーK」は有力な武器

 アメリカへ行った当時のことは、実はあまりよく覚えていません。とにかくテニス漬けの毎日で忙しく、ホームシックになることはまったくありませんでした。とくに最初の二年間は、日本から行ったふたりの仲間もいましたし、テニスに夢中で両親にもほとんど連絡をしなかったような気がします。
 アカデミーははっきり実力の世界で、上り調子のプレイヤーには万全のサポートが与えられるし注目もするけれど、下がっていくと見向きもされない、極端にいえばそのくらいのイメージです。勝敗についても厳しく、「良いテニス」でなく「勝つテニス」ということを意識に叩き込まれます。フィジカルの鍛錬はもちろん、カウンセラーが付いて試合前のイメージトレーニングや、試合を振り返ってどのポイントでどう感じたか、どういう気持ちにもっていくべきか、といった日常的なメンタルトレーニングも行なわれます。ここに集まったプレイヤーは、お互いに上を目指すライバルでもあるし、同時にいい友達でもあります。一緒に来たふたりの仲間が帰国して、「ああ、これがホームシックというものなのかな」と感じる瞬間もありましたが、自分はもうここでやるしかない、と新たに覚悟を決めました。
 プロ転向を発表したのは二〇〇七年十月、アメリカに渡ってからほぼ四年後です。そして翌二〇〇八年が自分にとっては特別な年になりました。
 まず何といっても二月のデルレイビーチ国際選手権での優勝です。まだ世界ランキングも二百位台で伸び悩んでいた頃で、ATP(男子プロテニス協会)の大会で予選から勝ち上がったことだけでも嬉しかった。決勝の相手は当時世界ランキング十二位のジェームズ・ブレーク(アメリカ)。前の晩に頭の中で試合のシミュレーションをして、翌日に備えたと記憶しています。緊張もあって最初は押されてしまいましたが、徐々に自分のプレイができるようになって、ペースがつかめてきました。でも、最後まで優勝できるとは考えていなかった。ウィナーズスピーチで、「テレビでしか見たことのない選手に勝てるなんて……信じられない」と話したのは、正直な思いでした。
 あの年は五月の全仏オープンで予選敗退、六月のウインブルドンでは腹筋を痛めて途中棄権するなど、その後落ち込む時期もありましたが、八月の全米オープンで当時世界四位のダビド・フェレール(スペイン)に勝ってベスト16に進出できたのは嬉しい出来事でした。日本人男子シングルスとして七十一年ぶりの快挙と聞きましたが、それよりも両親が観戦した試合でいい結果を出せたことで、少しは親孝行ができたかなと思いました。
 でも、その次の試合は完敗でした。試合後のインタビューで、ベスト16より二月のツアー優勝のほうが嬉しい、と答えたのは、その口惜しさがあったからです。
「躍動感あふれる」と僕のプレイを表現して下さる方も多いのですが、自分でいつも大事にしているのは、まずテニスを楽しみたい、ということです。もちろん試合に勝ってこそ楽しいと感じるわけだし、相当な負けずぎらいなので勝ちたいのですが、テニスをすることに生きている理由があり、そこから快感が生まれてくる。そういうふうにテニスを楽しんでいることが、見る人にも伝わっていくなら、僕としても嬉しく思います。
「エアーK」という僕のショットのニックネームも嫌いではありません。バックハンドでジャンプしながら打つ、いわゆる「ジャックナイフ」をやる選手は結構見かけます。最初はこれを見て、僕もバックハンドでやり始めたんです。ところが僕は背が大きいほうではないので、自然とフォアでもそういう打ち込み方をするようになりました。跳ぶことによって、高く弾んだボールを後ろに下がらず高い打点でとらえて叩くことができます。普通に打つのとタイミングをずらすことができるし、ボールの速さが全然違う。決まる確率も高いので、これは有効なショットだと分かってきました。あのショットをやると観客席がすごく盛り上がるのが伝わってきます。最近では子どもたちが真似したりしていますが、僕にとってはあくまで活用しがいのあるショットの一つです。

故障が与えてくれたもの

 まだ短いテニス人生ですが、これまでで一番精神的にきつかったのは、やはり怪我を抱えた時期ですね。
 二〇〇九年一月の全豪オープンは一回戦敗退でしたが、大会直後に発表されたランキングで自己最高となる五十六位に上がりました。またATPツアーに参加する全選手の投票による、二〇〇八年度ATPワールドツアー最優秀新人賞(Newcomer of the Year)を受賞することもできて幸先よいスタートかと思われました。ところが、右ひじ痛が悪化して、三月からは試合に出ることをやめ、治療に専念することにしました。
 当初はレーザー治療や他のケアで治すという方針だったのですが、やがて疲労骨折ということが判明しました。六月のウインブルドン選手権、八月の全米オープンと連続して欠場し、八月に右ひじの内視鏡手術を受けました。三月に休みに入ってから八月に手術するまでの間は、とても長く感じられました。何より体にメスを入れること自体に拒否感があったし、失敗の危険性も当然あるし、毎日毎日、手術のことばかり考えて疲れ果てたほどです。術後も腕がまったく動かせない状況が続いて、以前のようにテニスができるのだろうかと思うと、この時期はとても辛かった。
 結局、この年すべてのツアーを欠場、翌二〇一〇年も年初は休み、一時はランキングを失いました。復帰しようとしたところでまた傷めたり、何から何まで初めての経験でした。
 でもこの活動休止の時間に、自分としては得るものもたくさんあったと思います。いまだから言えることかもしれないけれど、怪我をしたことによってプラスになったこともありました。一つは怪我にたいする意識。怪我を予防するためのトレーニングに、より意識的に取り組むようになりました。基礎的な体づくりの重要性を再認識しました。もうひとつは周囲のサポートのありがたさです。家族とは真剣に意見を言い合いましたし、医師やコーチや知人、たくさんの人が復帰できるようにさまざまな協力をしてくれました。
 しかし、何にもましてコートに復帰できたという喜びは格別でした。そして次第に調子が戻ってランキングが上がっていくと、プレイできることのありがたさをいままで以上に感じました。テニスをこうやってまた楽しめるとは何て幸せなのか、と。

理想はフェデラー

 理想のプレイヤーといえば、やはりロジャー・フェデラーです。身体的にはそれほど大きくもないし、ラファエル・ナダルのようなマッチョでもない。それでいて体幹はすごくしっかりしていて、軸がまったくぶれません。プレイは多彩で、試合になってこそ力を発揮する彼のプレイスタイルが一番の理想です。これまで一緒に練習したり、ヒッティングパートナーを務めたりの経験はありますが、本番の試合はまだです。面白いのは、フェデラーとナダルが練習の時は非常に好対照だということです。ナダルは、練習の時からヘビーなボールを打ってきて、こんな選手には絶対勝てそうもないって感じですが、フェデラーは練習と試合ではまったく違う。練習試合ではリラックスしているので、僕が勝ってしまったこともあるくらいです。
 フェデラーの強さの秘密は、ゲームメイクが非常に巧みな点です。たぶん天性のものでしょうが、ここはライジングで叩くとか、深く呼び込んで打ったほうがいいとかの判断が瞬時にでき、コートを目いっぱい広く使って相手を翻弄します。フェデラーは絶えず試合をコントロールして、自分のペースでゲームを進めていきます。神業のようなショットも打つし、自在で多彩で、見ているだけでも本当に楽しめる選手です。
 正直なところ、僕の場合、身体の大きさではハンディがあります。最近、パワープレイの選手がトップを占めてきているのは否定できない現実。でも身体が小さいからといって、絶対に勝てないわけではありません。体格以外の部分、戦術面やフットワークの良さ、器用さなどでカバーしていけば、チャンスは大いにあります。そのためにも、身体の強さは最低限の条件です。いまは何より身体をしっかり作るということが、自分にとっては一番大事かなと思っています。
 その意味で意識して努力しているのは、体幹を強化することと、インナーマッスルを鍛えることです。ベンチプレスなどで基本的な筋肉を付けることも大切ですが、僕の場合は大きな怪我もやりましたし、筋肉のしなやかさや細かい筋肉の強化により注意を払っています。
 そうした身体づくりとともに、もう一つの課題はメンタル面です。相手に負けない、もっと強い気持ちを持つことが大切だと思っています。一月の全豪オープンでは、世界九位の選手に負けてしまったのですが、その時は相手を意識しすぎて、何もできないうちに終わってしまいました。「勝つテニス」は、経験を積むことで身についてくる部分もありますが、絶対に勝ちに行くぞという精神面の強化も課題です。

一緒に世界をめざして

 二〇一〇年四月から本格的に復帰し、試合の勘が回復するのにだいぶ時間がかかりましたが、ようやく今年に入って自分の理想とするテニスの感触が戻ってきました。ボールを捕らえる感覚など、やっと自分らしいテニスで勝てるようになってきたかな、という感じがしています。ともかく一度ランキングを完全に失い、ゼロ地点に戻ってからの再スタートですから、まずランキングを上げることのプレッシャーがありました。新しい目標に向けて、また頑張ろうというところまで、ようやく戻って来たという感じです。
 そういうタイミングで、ユニクロから「一緒に世界を目指してやっていきましょう」と声をかけていただけたことは、とても嬉しい出来事でした。柳井社長とお会いして「何年後に世界一になれる?」と聞かれた時は、正直、ビックリしましたが、新しいモチベーションをいただけたと感謝しています。
 去年ヨーロッパに遠征した時、あちらのユニクロの店頭に長い行列ができているのを見て、日本のユニクロが海外でこんなに注目を集めているんだ、と誇りに感じました。ですから「日本発、世界ナンバー1を目指す」を共通の目標にしよう、と言われると勇気がわいてきます。
 今年からユニクロのウエアを着ていますが、僕の身体や動きに合うようカスタマイズしていただいたので、着心地は最高です。実際、全豪オープンで戦ってみて、汗の吸収の良さと乾きの早さにとても助けられました。白地に赤という日の丸カラーも自分の好きな配色です。赤はプレイする上で気合の入る色です。「赤い翼」をイメージしたデザインということですから、これからの五年間で自分も大きく羽ばたきたいと思っています。

ユニクロは、日本のトッププロテニスプレイヤー錦織圭選手との間で、5年間のスポンサー契約を締結いたしました。2011年シーズンより、錦織選手はユニクロが開発したウエアを着用して、世界中のコートを駆けることになります。世界トップクラスのアスリートをサポートすることで、ユニクロブランドに対する世界的な認知と信頼性を高め、一層のグローバル化を推進してまいります。それと同時に、錦織選手の助言、意見を取り入れることで、さらに充実した機能を持つカジュアルウエアを、世界中のお客様に届けたいと考えています。

「考える人」2011年春号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 平野光良(ポートレート、記者会見)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。