プレスリリース

2011年07月13日

東日本大震災支援の舞台裏 [前篇]~「考える人」2011年夏号~

~「考える人」2011年夏号(新潮社)より転載~

ユニクロ社員、被災地で衣料を直接配布する

株式会社 ファーストリテイリング CSR部
シェルバ英子 (Sherba Eiko)
写真家
上岡伸輔 (Kamioka Shinsuke)

自治体機能が失われた中で

 三月十一日の大震災発生を受け、ファーストリテイリング(以下FR)CSR部はその翌日から行動を開始した。これまで海外の難民・避難民への支援活動を通じて付き合いのあったNGOなどに声をかけ、衣料支援を念頭におきながら、被災地でのニーズ調査をさっそく始めたのである。一方この時点ですでに、ツイッターやフェイスブックには「ユニクロに支援を期待する」というような書き込みが現われ始めていた。従業員からは直接CSR部宛てにメールが入り、お客様からも「ぜひ衣料支援を検討してほしい」といった声が届き始めていた。CSR部のシェルバ英子さんに、今回の支援活動について話を聞いた。
「非常にありがたいことだと思いました。こういう有事の際に必要とされている企業だということ、自分たちは期待されているのだということが分かって、気持ちが引き締まりました。FRグループと、全世界のグループ従業員からの義援金(代表の個人としての寄付十億円を含む)を十四億円、支援物資として衣類七億円相当の寄贈、そして義援金の募金活動のために、全世界のユニクロとグループ各店舗に募金箱を設置し、そのお金は赤十字社などを通じて確実に被災地に届ける――などの方針を、週明けの月曜日に決定しました。そこで、七億円規模の衣料支援をどういう方法で配布するかが、私たちの仕事になりました。
 ところが、各県の災害対策本部との連絡がなかなか取れない上に、連絡がついても被災地の行政機関はどこも人命救助や安否確認で手一杯という状態でした。物資支援はどうしても後回しにならざるを得ません。そうした時に福島県二本松にあるJICAの訓練所を倉庫に使えることが分かり、私たちはまずそこにユニクロの物資を集約することにしました」
 そして二本松でスタッフが荷を受け入れ、八方に手を尽くしてようやく得た情報をもとに、宮城県内の倉庫に四十七万着分を納品。続いて岩手に五万着分を緊急支援として発送した。しかし、問題はその先にあった。宮城県内の倉庫にいったん収められたとはいえ、行政はとても衣料配布にまで手が回らない状況だった。「このままではせっかく運んだ衣類がずっと倉庫に眠ったままになるのは目に見えている」。そこで社員ボランティアを募り、自分たちの手で被災地で直接配布する方針に踏み切った。震災から約一週間後のことである。

通称「衣料お届け隊」

「直接配布は、海外での活動でタッグを組んでいただいているNGOのJENさんと協力しながらでした。人がよく集まる場所――たとえば自衛隊の仮設風呂などの近く――へ出向いていって、そこに集まってきた人たちに必要な量をお渡しするようにしました。ちょうど青空市みたいな感じで、ユニクロのお買い物袋に入れて配ったこともあって、ちょっとしたお買い物感覚を味わっていただけました。避難所生活で・配給慣れ・している時に、自分で色も選べますし、ユニクロの社員にサイズを尋ねたり、ごく自然に会話も生まれます。JENの方に『これは心のケアにもつながるんですよ』と言われましたが、単に物を配るというだけでなく、精神的な面でのプラス効果もあったようです」
 通称「衣料お届け隊」は、三月二十日から毎週末、宮城県石巻市、気仙沼市、岩手県大槌町、陸前高田市などに赴いた。十五人一チームで四班に分かれ、一日で約一万着を配布したという。そして四月に入ると、被害のひどかった三陸沿岸にまで足を伸ばすことができるようになった。全商品リサイクル活動で連携していたNPOとのネットワークが、この時も有効だった。
「事前に災害ラジオなどで『きょうは何時から何時の間にユニクロがこの場所に来て、衣類を配ります』と告知されると、一時間ぐらい前から長蛇の列ができて、歓迎されました。三陸沿岸では特に、これまで石巻や一関に店舗があるくらいでしたので、皆さん、『わざわざ来てくれてありがとう』みたいな感じでした。
 またブラトップなど、若い人向けだと思っていた商品を、この機会に試してみたらすごく着心地が良かった、と年配の女性から言われたり、作業するのに動きやすいスウェットがものすごく人気を呼んだりしました。当初、私たちは寒さ対策のヒートテックインナーや防寒着を中心にした衣類を想定していましたが、実際に被災地に行くと、靴下とか下着類のニーズが高いことが分かり、すぐに商品構成を変更したりしました」
 現地でのニーズ調査がまず重要だという認識は、これまで海外での難民・避難民支援を継続的に積み重ねることで学んできたことだ。海外でのノウハウの蓄積は国内にも活かされたのだろうか。 「そう思います。ニーズは日々変化するものですし、配り方についても、ちょっとやり方を間違うと海外などでは本当に争いの種になってしまいます。幸い、今回は皆さん非常に礼儀正しくて大きな問題は起こりませんでした。ただ、被災の程度には個人差があります。現地に行けばその差異がよく分かります。ですから、家屋全壊の方や、家をすっかり流されてしまった方を優先するなど、私たちも配分方法には配慮したつもりです」
 社員からのボランティア希望者はいつになく多かったという。募集に対して定員枠の倍程度の申込みがあり、基本的には全員を受け入れた。活動日は三月二十日から四月二十四日までのうちの十一日間。参加人数は百十八名。活動エリア、配布枚数は、宮城県(四十七万枚)、福島県(三十万枚)、岩手県(五万枚)、茨城県(三万枚)となっている。
「参加を希望した理由としては、日本人として何か直接の支援をしたいというのが全員に共通していました。そして現地に入ってみてからは、被災者に物資を届けるシステムが欠如しているのを目の当たりにして、『必要としている人に、必要なものが、必要なだけ、最速で確実に届く』支援を目指さなければ、と実感した人が多かったようです。ユニクロへの大きな期待を感じると同時に、衣類の果たしている役割というか、・服の力・に改めて気づかされたという声も多くありました」

復興に向けた支援のフェーズに

 今回のボランティアには、自ら志願して外部から参加した人間もいた。二〇〇七年からユニクロの海外での支援活動にすべて同行し、その活動の写真を撮り続けてきたカメラマンの上岡伸輔氏である。
「震災が起きてから、現地を見ておきたい、写真を撮りたい、という両方の気持ちが募っていたのですが、自分は報道カメラマンでもないので、なかなか踏ん切りがつきませんでした。その時、ユニクロさんの話を聞いて、ボランティアなら自分も少しはお手伝いできるだろうと思って同行させていただきました。
 僕が海外の難民キャンプなどでこだわっていたのは、彼らと自分たちはどうしたら通じ合えるのか、自分は写真を通して彼らと何を『共有』できるか、ということでした。最近『災害ユートピア』という言葉をよく耳にしますね。災害時に人は助け合ったり、無償の行為をすすんで行うという……。阪神・淡路大震災の時も、被災者と救援者の間に、相互扶助的な共同体が自然発生的に生まれたといいます。そういう共同体感情が、今回もあるのではないかな、という興味もありました。
 ただ、海外と違って同じ日本人同士ですから、逆に気を遣ってしまう部分もありました。海外の難民キャンプと同じようには服を配れないし、僕も被災者にカメラをうまく向けられない。何か難しい。実際、写真を撮っていて、どこかのボランティアの人に罵声を浴びせられました。『バカが写真撮ってる』みたいな感じで。被災者の気持ちも考えないけしからん奴だ、と思われたようです。いまでもどう反応すべきだったかと思い返すのですが、つくづくカメラマンとして覚悟や信念がないと撮れないことを思い知らされました。
 そんな中でユニクロの社員はよくやっていると思いました。一人ひとりの動きが非常にすばやい。店長経験のある人などは、衣類を配る時も「こう並んで」とか、オペレーションがともかく早い。時間をかけないで最速で行動するのが身についていると感じました。フットワークが軽く、身体を動かすことが苦にならない人たちです」
 ユニクロの今後の支援活動だが、追加の支援物資の寄贈がすでに始まっている。六月十一日から宮城、福島、岩手の各被災地に、これからの季節に必要な夏物商品のドライポロシャツやショーツ、トランクス、ソックスなどの下着類、ユニクロの商品約二十二万着、約二億四千万円相当が寄贈される。また社員が現地に入って、これらの衣類を直接配布する活動もこれまで通りである。
 震災支援のあり方としては、緊急対応の時期から、いまや「避難」のフェーズに移行し、それと並行しながら中長期的な「復興支援」も求められ始めている。
 五月十八日には、建築家の安藤忠雄氏を実行委員長とした「桃・柿育英会東日本大震災遺児育英資金」の設立が発表され、FRグループはその趣旨に賛同し、柳井代表取締役会長兼社長が発起人として参加するとともに、運営資金としてまず約二億二千万円を寄付することを決定した。今後の計画についてシェルバさんに伺うと、当面の目標をこう語った。
「衣料支援の一方で、これからは被災地でいろいろな活動をしている各種NPO団体と連携して、被災者の自立につながるような支援にも取り組みたい。緊急対応から復興に向かう、その過渡期のフェーズこそが実は非常に重要だと考えています」

「桃・柿育英会」発足に向けて

建築家
安藤忠雄 (Ando Tadao)

 三月十一日午後二時四十六分。そのとき、私はロスから成田へ向かう機内にいました。「まもなく、成田空港に着陸いたします」というアナウンスは、数分後に「成田空港が地震により閉鎖されたため、新千歳空港に到着地を変更します」と訂正されました。それだけで、地上で今おこっていることが尋常ではないことが察せられましたが、現実はさらに想像を絶するものでした。
 地震や津波、原発事故。東日本を襲った災害によるダメージは深刻です。自分なりに、今何が出来るかを考えましたが、未曾有の事態を前にして、なかなか答えは出ませんでした。結局、たどり着いたのは、たとえ小さな動きでも、自分たちに出来ることからしていこうという答えでした。阪神・淡路大震災の震災復興に関わった経験を活かして、もう一度遺児育英資金を立ち上げようと考えたのです。
 今回の震災による被害は、東日本にとどまる話ではありません。かつての経済大国としての勢いは影を潜め、その存在感が薄くなっていた日本に、追い打ちをかけるように襲ってきた大災害。対応の仕方によっては、日本はこのまま沈没してしまいます。被害は甚大ですが、今ここでなんとかしなければいけない。そして、今後日本が復活できるかどうかは、次代を担う子どもたちの元気にかかっています。被災地で遺児たちの顔を見た時、まずこの子たちの力になるのが先決だと感じました。
「桃・柿育英会」では、阪神・淡路大震災の時と同様、遺児や孤児たちが、高校を卒業するまで支援します。そのために、一年間に一口一万円を、十年にわたり継続して寄付して下さる協力者を募っています。私たちも、少なくとも十年間は頑張らなければいけないと考えています。
 しかし、阪神・淡路の時と今回の一番の違いは、被害状況の全容が、震災後三カ月たった今でもはっきりと解らないところです。現在発表されている孤児の数は、二〇一名で、すでに阪神・淡路の三倍近い数字となっていますが、まだまだ増える見込みですし、遺児の数に至っては、行政側もまったく把握できていない状況です。前回の「桃・柿育英会」は最終的に四億九千万円の寄付金を集め、四百十八名の遺児・孤児に対し支援を行いました。今回遺児の数はおそらく一千人を超える見込みですので、寄付者一万人、十億円を目標に掲げています。
 遺児育英資金を立ち上げようと思いついてからもしばらくは、日々報道される震災の被害の大きさに、ただただ呆然として、次の一歩に進めませんでした。ある時偶然に、ユニクロも、店頭募金で集めたお金を、震災で親を失った遺児・孤児に提供しようと検討されていることを知り、早速柳井さんに電話しました。アイデアを伝えると、「やりましょう」の一言。会見で柳井さんも言われていた通り、まさにタイミングの問題でした。それは、「桃・柿育英会」の発足が、一気に現実味を帯びた瞬間でもあります。
「桃・柿育英会」では、奨学金の支給だけでなく、子どもたちに夢と希望をもってもらうため、発起人の皆様や有志の方たちが被災地にでかけ、子どもたちに直接語りかけるなどの行事を定期的に行おうと考えています。学びの大切さを伝えて頂ける方として、小柴昌俊先生や野依良治先生といったノーベル賞受賞者にも、発起人になっていただきました。  発足の意向を発表した五月十八日以来、事務局体制もろくに整わないうちから、電話での問い合わせが殺到しました。一人でも多くの人の思いを汲み取ろうと、スタッフたちも奮闘しています。一日二百件以上の申し込みに対応するのは大変ですが、「十年続けられるかどうか解らないが、とにかく少しでも力になりたい」「このような取り組みを待っていました」という人々の声に勇気づけられると共に、いかに多くの人たちが、今回の震災で心を痛めていたかが良く解り、身が引き締まる思いです。
 私は、家の経済的な事情と、学力の問題から、大学での専門的な教育を受けることができませんでした。今でも、機会があれば学びたいという思いが強く残っています。過酷な状況に置かれた子どもたちにも、学びに対する意欲を失って欲しくない。彼らを支援し、励ましていきたいという思いが、「桃・柿育英会」の原動力となっています。
 この趣旨に本当に多くの人々が賛同して下さる状況を見て、駄目だ駄目だと言われ続ける日本人も、決して捨てたものじゃないという思いを強くしています。多くの人たちは、たった一つの新聞記事を見て、電話をかけてきて下さっている。この人たちの思いを束ねることができれば、きっと日本を元気づける大きな力になると信じています。

東日本大震災で親をなくした震災遺児たちの学資を援助するため、建築家の安藤忠雄さんが実行委員長となる「桃・柿育英会東日本大震災遺児育英資金」設立の記者会見が、5月18日に開かれました。毎年1万円を10年間募金してくれる人を1万人募り、総額10億円を集めることを目標に掲げています。発起人にはノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊さんらとともに、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長も名を連ねました。瀬戸内海の緑化運動「瀬戸内オリーブ基金」でも協働してきた安藤さんと、子どもたちに希望を、という息の長い「復興支援」に取り組んでまいります。

「考える人」2011年夏号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 上岡伸輔、青木登(ポートレート、会見写真)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。