プレスリリース

2011年07月13日

東日本大震災支援の舞台裏 [後篇]~「考える人」2011年夏号~

~「考える人」2011年夏号(新潮社)より転載~

世界中の人が幸せになるための「自立支援」

特定非営利活動法人 ジェン(JEN)理事・事務局長
木山啓子 (Kiyama Keiko)

支援活動の第一歩とユニクロとの出会い

 地震の起きたその日、私はJENのスタッフ六人と赤坂でミーティングをしていました。ビルが大きく船のように揺れましたが、十六年前、たまたま遊びに行った神戸で阪神・淡路大震災を経験していたこともあり、震源が東京ではないことは肌感覚ですぐにわかりました。どこが震源地なのか、東京でこれだけの揺れならば、現地はすでにかなりの被害が生じているはず、早く支援に行かなくちゃ……揺れを感じながらも頭の中はそのことでいっぱいでした。何よりまずは情報収集と、テレビのある部屋に移動させてもらい、震源地が東北の太平洋沖であること、津波が沿岸地域を襲っていることをそこで知りました。十九時には赤坂を出て、飯田橋にあるJENの事務所に歩いて向かい、そこで関係各所と連絡を取りながら、初動をどのようなものにするか、スタッフと検討しました。
 徹夜明けの翌朝、第一陣として現地に向かうスタッフ二名を決め、彼らは出発の準備のために帰宅し、残ったスタッフは車や必要な物資の手配や更なる情報収集をしました。まさに出発という午後三時半過ぎ、福島第一原子力発電所で最初の水素爆発が起き、予測のつかない放射能のリスクのため、その日の派遣は保留にしました。
 支援活動に際して、私たちJENの最優先事項はスタッフの心身の健康。これが第一です。二番目が被災者や難民の利益を優先すること、三番目以降はありません。そう言うとドライに聞こえるかもしれませんが、スタッフが健康でなければ支援活動はできません。かえって被災地に迷惑をかけることになりかねない。
 結局、十二日の夜は出発保留のまま解散。そう決断したものの内心は複雑でした。すでに東北の甚大な被害は伝わっていて、それを知りながらこのまま東京で待機していていいのだろうか。いや、これまで世界の被災者や難民を支援してきたJENとして、それはあり得ない。放射能のリスクは未知数だけど、とにかく私だけでも現地に行こう――そう決意して、翌十三日の朝に事務所に来ると、前日派遣する予定だった二人が「行かせてくれ」と言ってきた。その顔を見て、「お願いします、頼んだよ」と送り出しました。その二人に加えて、ボランティア一人の計三人が、その日のうちに仙台目指して出発しました。なぜ仙台かというと、まずはとにかく被災地付近の都市に向かい、そこで支援をしながら情報収集するのが通常のことだからです。
 私は、震災から十日後の三月二十一日に現地入りしました。それまでは東京で、先発隊の後方支援や被災地の情報収集や支援の調整などをしていました。その間、いろいろな企業や団体から、ご寄付やボランティアの派遣や物資提供のお申し出がありました。ユニクロさんにも三月十二日早朝にはご連絡しました。三月の東北、寒さが厳しいことが容易に推測できたので、防寒着の提供を要請すると、その場で快諾していただきました。
 ユニクロさんとのご縁は十年前に遡ります。二〇〇一年の九・一一テロ事件の後、アメリカがアフガニスタンを十月八日に空爆、それによって多数の難民が隣国のパキスタンに流入することが予想され、各国の人道支援団体が現地で準備していました。「プルファクター」といって、難民の発生を必要以上に誘発してしまうことから、本当は、支援を事前に準備することを避けなければいけない。しかしこの場合、空爆が起きてから準備したのでは手遅れになると、準備をしていたのです。結果、恐れていたよりは少なかったものの、かなりの数の方がパキスタンに避難してきました。現地は標高が五千メートルを越えるところもある、寒さの厳しい地域。そこへユニクロさんが、「エアテックジャケットを提供したいので、現地で配っていただけますか」と申し出てくれた。そのときからのお付き合いなんです。
 私たちJENは、闇雲に物資を送りつけないように気をつけていて、支援の方法にこだわりを持っています。その方法とは、支援を急ぎ、効率を大切にするからこそ被災者や難民のニーズを調査し、把握したニーズに沿った形の支援をする、ということです。これは今回の東日本大震災でも同様です。
 そのことをユニクロさんに伝えると、ご理解をいただき、すぐにサンプルを送っていただきました。サンプルは、パキスタンでの評判も大変良かったので、その結果をフィードバックすると、すぐに送料負担の上、物資を送って下さいました。そうしたアクションの速さもさることながら、「まずはサンプルを」という我 々の要望にも嫌な顔ひとつせずこたえていただいたことが強く印象に残りました。
 二〇〇五年、パキスタンのカシミール大地震でも、フリース素材のジャケットやTシャツ、スカーフを計二万三千点ご提供いただきました。そのときはこちらが言う前から、「JENさんはニーズを確認するんですよね」と。このような支援を押し付けない姿勢は、被災者や難民の立場になって考えていただいている証であり、そのことにとても感激しました。そのような経緯があったので、今回もすぐユニクロさんに、衣類の提供をお願いしたのです。

被災者のニーズにこたえるために

 現地に入ってからはまず、活動する地域をどこにするか考えました。各避難所の滞留率、つまり自宅に戻れないままでいる人の割合が三月二十二日時点で高い地域が六か所あり、それは気仙沼、南三陸町、女川町、石巻、東松島、山元町でした。中でも石巻は大きな町で、そこを拠点にすれば、気仙沼や南三陸町など山元町以外の全ての市町に足を伸ばせると判断しました。私たちスタッフは、たまたま見つかったプレハブで寝泊りしていたのですが、三月の東北は、こんなに寒くていいのかしらと思うぐらい寒い。大家さんが貸してくれた灯油ストーブの効果がわからないぐらい寒いのですから、ストーブのない避難所はどうなのだろう、早く何とかしなきゃいけない。それは被災者のニーズを調査してそのニーズに応えること――。私たちが効果的に動くには、どうすればよいのか、そのことばかりを考える日々でした。
 まずは孤立している地域がないか、把握することに努めました。重機を駆使して、泥や瓦礫の除去作業を急ピッチで進めていましたが、とにかく道という道がその態を成していない状況でしたから、救援物資が全く届かない場所もありました。それを聞きつけ調べるのが本当に大変で、車で町中を走り回りました。
 避難所や人の集まるところに足を運び、とにかく何が必要か、徹底的に聞き込み調査を行い、どこに何がどれだけ足りないのか、それを把握することに全力を注ぎました。そうして得た情報を「週替わりアイテム」としてホームページやツイッターで告知し、支援を呼びかけました。集まった物資は足立区の倉庫に一度集めて、仙台や石巻に借りた倉庫に届くよう手配しました。その手配の最中に、ユニクロさんの物資をどのようにして被災地に配るか相談していて、結果的に、ユニクロさんが自分たちで配ることになり、私たちもそのお手伝いをしました。
 この時点で三月下旬。震災からひと月足らず、まだ最初のショック状態が抜けきれないときに、ユニクロさんが被災地まで直接服を配りに来てくれたことの意味は本当に大きかった。被災者の人たちからすれば、着の身着のままで家を飛び出して着替えがない、それに加えてこの寒さ。そこにユニクロがやって来た。そこには下着や防寒着など、のどから手が出るほど欲しかったいろいろなアイテムが並んでいる。しかも新品。ユニクロのロゴの入ったレジ袋を手に提げて、自分の好きな服を、あたかもお店で「お買い物」するように選ぶことができる。被災者にとって、こんなに嬉しいことはなかったと思います。服を手にいれた以上の心理的な効果があったのではないでしょうか。
 それは、ユニクロの社員の方々が現地まで来てくれなければ決してできなかったことです。商品知識のない我々には真似できません。被災者の方々が本当に喜んでいるのが表情でわかりました。決してお世辞ではなく、私たちのこだわる「ニーズ」に、ユニクロさんが最高の形でこたえてくれたと思っています。

少しでも早い自立支援を

 これまでもこれからも課題は山積みです。これを挙げるとキリがないのですが、少しだけ。
 まず、国や県、地方自治体といった公的機関と、企業、NGO、ボランティアといった民間との連携が不十分です。そのため人的にも物的にも資源を有効に活かし切れていないという状況が続いています。公的機関は絶対的に人手が足りないのですから、もっと外部の力を有効利用していただきたいのですが、現状が忙し過ぎて、頼むこともできないような状況です。普段の何分の一の人員で、数十倍の仕事量に取り組まなければならないのです。その上、従来の役割分担の発想から自由になれないことが障害になっています。
 現地のハローワークを訪ねたとき、そのことを痛感しました。「自立支援」のために重要なことのひとつは、仕事を見つけることです。そのための公の動きがどのように進んでいるかを確認するために訪れたのですが、すでに職員のみなさんはオーバー・ワーク状態。そこで、「東京から極めて事務処理能力の高い人がボランティアに来てくれています。何人か派遣してもらえばいいのでは」と聞いたところ、「いや、私たちは厚生労働省の管轄下にある。上の方に確認しないと……」と尻込みするばかりでした。緊急事態なのですから、超法規的に動かなければいけないのに、これにはさすがにがっかりしましたし、気の毒に思いました。
 完全な復興までは、まだまだ長い時間がかかると思います。これから私たちJENが取り組むべきことは、やはり「自立支援」です。そのための第一歩として、悲しみにくれる被災者の方々の心のケアを目的とした「コミュニティ・カフェ」を石巻に開設いたしました。これは喫茶スペースのみならず、マッサージのサービスを提供するなど、少しでも現地の方に笑顔と元気が戻るように機能すればよいと考えています。
 さらに津波で壊滅状態となった地域に少しでも活気が戻るように、何らかの形で商店を再開される被災者の方の支援を計画しています。現状では、人が戻らないのでお店も戻らない、お店が戻らないから人も戻らないという悪循環に陥っています。それを解消するために、例えば移動式の八百屋さんやレストランを設置、私たちがシェフを雇ってそこで料理を提供してもらう、といった試みです。
 震災から三ヵ月が経過しようとしています(編集部註 六月六日取材)。「何が必要ですか」と聞かれても、「いや、生きているだけで十分です」と答える被災者の方がたくさんいます。だからこそ、もっともっと彼らのニーズを掘り起こしていかなければいけないと考えています。それに「心のブロック」というか、心に蓋をしなければ毎日暮せないような人がたくさんいます。「あのときこうしていれば、あの子は助かった」などと自分を責め、楽しむことを自分に許さない。他人とコミュニケーションが取りづらくなって周りから孤立してしまう。ソーシャルワーカーや心療内科のお医者さんたちと連携しながら、その人たちの「心のケア」も進めていきたいと思っています。
 JENの究極の目的は、世界中の一人ひとりが幸せになることです。そのためには、辛いかもしれないけど、もう一度人と人との触れ合いを取り戻さなければいけない。ときにはそれで傷つくこともあるかもしれないけど、徐々に心を開いていって、温かい絆を結び直してもらいたい。そのためには、我々も最大限の努力はしますが、一人ひとりの協力もとても重要だと思っています。

「ユニクロ、来てくれたんですね。嬉しい!」――各訪問先では1時間も前からたくさんの人が列をなして待っていてくださいました。その様子を目のあたりにして、ボランティアとして参加した社員は、ユニクロに対する期待や信頼の高さに身の引き締まるような思いを味わいました。ユニクロ社員は今後とも被災地に赴き、衣料の直接配付を行ってまいります。また被災地でさまざまな活動を行っている各種NPO団体とも連携しながら、被災者の自立支援となるような中長期的な「復興支援」活動も応援してまいります。

「考える人」2011年夏号
(文/取材 : 新潮社編集部、撮影 : 撮影・上岡伸輔、青木登(ポートレート)、写真提供=JEN
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。