2013年01月29日
ユニクロの新しいCSR活動の舞台裏[後篇]~「考える人」2013年冬号~
~「考える人」2013年冬号(新潮社)より転載~
未来を担う子どもたち
ユニクロ復興応援プロジェクト
プロ車いすテニスプレイヤー
国枝慎吾 (Kunieda Shingo)
東日本大震災発生の翌日から、ファーストリテイリングCSR部は行動を起こした。店頭での募金、利益の一部を義援金として寄付、支援物資の寄贈、従業員ボランティアによる被災地への衣料配布など、さまざまな取り組みを継続的に行ってきた。その俊敏さと柔軟性は、全国から大きな期待を集めずにはおかなかったし、被災地からの出店の要望も相次いだ。こうした活動によって、自立支援、雇用創出、経済復興につながる支援の必要性を強く感じたユニクロは、いままた新たな活動を始めている。
二〇一二年十月十七日、ユニクロの復興応援プロジェクトの一環として、ロンドンパラリンピックの金メダリスト、国枝慎吾選手が宮城県石巻市を訪問し、石巻ローンテニスクラブで交流会、釜小学校で全校生徒五百名との交流会を開催した。
国枝選手は、二〇〇七年に車いすテニス史上初の年間グランドスラム(4大大会制覇)をはじめ、パラリンピックでは3大会で三つの金メダルと一つの銅メダルを獲得するなど、車いすテニス界を代表するトッププレイヤーとして活躍。二〇〇九年に車いすテニスの選手として日本で初めてプロに転向し、同年からユニクロがスポンサーをしている。
東日本大震災後にこの地を訪れたのは初めてだったという国枝選手に、お話をうかがった。
被災地を目の当たりにした衝撃
「あの大震災が起きたとき、日本のだれもが自分にいま何かできることはないか、と感じたはずです。僕もその一人で、何か東北の助けになること、力になることができないだろうかとずっと思っていました。けれどスケジュール的な問題などで、すぐには行くことがかないませんでした。ロンドンパラリンピックが終わり次第、足を運びたいと考えていたところに、ユニクロの復興応援プロジェクトの一環としてお話をいただいて、もう二つ返事で『ぜひ行きたい』と。ようやく今回の訪問が実現したのです。
被災地に立ち、それまでいろいろ情報はあったけれども、自分自身の目で実際に見て、言葉を失いました。
すべてが破壊しつくされ、瓦礫は今は片づけられて、見わたす限り何もない。その瓦礫仮置き場も視察しました。行き場のない圧倒的な量の瓦礫と、自然発火対策のためのおびただしい煙突。石巻魚市場周辺では、広い範囲にわたって一メートルにも及ぶ地盤沈下を目の当たりにし、地震の凄まじい威力に恐怖を感じました。潮が満ちると内陸の方まで押し寄せてくることが日に一、二回はあるそうです。何より、車をおりて空気を吸うと、まだ、においが残っている。もう一年半もたつのに、そういった震災の爪跡がくっきりと残っているんです。
何も解決していなかったのだと、つくづく思いました。国レベル、政治レベルで、もっと東北に対して復興支援すべきじゃないか。財政的に厳しいなら今はほかの無駄を削減して、この問題に取り組むことを最優先にするべきだと、被災地に行ってすごく思いました」
子どもたちの記憶に残るように
「最初に訪れた石巻ローンテニスクラブ、ここも震災の被害をこうむっています。ぐちゃぐちゃになったテニスコートの写真を見ました。でも、地域のみなさんの力で二カ月後に修復されたそうです。疲れきって生活物資もままならない中、一刻もはやくテニスができる環境を整えようとされたんですね。やはり子どもたちがテニスをするような日常の暮らしをとりもどしたい、という方々が多かったのでしょうか。そのために動くことで、きっとエネルギーが湧いたと思います。
テニスクラブでは、未就学の児童から高校生ぐらいまで十五人ほどに迎えられました。初めて車いすテニスに出会う人ばかりなので、スピーディな動きを見てもらったり、レッスンをしたりしたあとで、全員と打ち合いました。
どんなプレーを見せるより、国枝とじかにボールを打ち合った、ということが、きっと一番記憶に残ると思って。そこに来た人に喜んでもらいたい、楽しい思い出として残ればいい。とはいっても、こちらも手加減しませんけどね。絶対あきらめない闘争心が身上ですから(笑)。コートに全員入ってもらって、最後は一対五と六とかそんな感じでラリーして、楽しく盛り上がりました」
未来へ向かう手紙
「つづいての交流会の場である釜小学校は、石巻でもっとも被害の酷かった大川小学校のためにあまり取り上げられませんが、震災で全校生徒五百人ほどのうち、二十五人もの犠牲が出ています。親や親族を失った生徒も少なからずいると聞いてすこし緊張したんですけど、体育館の中に入ったとたん、そんな気持ちは吹っ飛びました。子どもたちの発散するエネルギーに、自分自身が逆に勇気づけられたほどです。
交流会はQ&A方式で、司会の方が『国枝選手に質問がある人!』と生徒たちに聞くと、みんな一斉に、ぴょんぴょん飛ぶくらい元気に手を挙げてくれたんです。
おかしかったのは、『国枝選手は何歳ですか』という質問。『何歳だと思う?』とつい聞き返したら、『五十歳』とか言われてガックリ。ほんとにそう思ったんでしょうね(笑)。『何で病気になったんですか』という率直な疑問には、原因はわからないけど、車いすになってテニスに出会えたと答えました。最後に、学校代表で一人の女の子が僕に手紙を読んでくれました。その子は震災前、テニスをやっていたんですね。
『震災から一年間は練習することが出来ず、とてもつらかったです。今は、テニスができることの喜びを感じています。国枝選手の話をきいて私も将来プロテニス選手になりたいという夢が強くなりました』……そんな内容でした。自分たちの置かれた現実を見据えた哀しみと、そこであきらめないで未来をつかもうという決意と。その両方に、心打たれました。
僕自身は九歳のときに脊髄の腫瘍で下半身麻痺となり、十一歳のときに母の勧めでテニスコートに行って、初めて車いすテニスの選手と接しました。車の運転や身の回りのこともすべてできる自立した方がほとんどで、これだったら自分も将来だいじょうぶだ、普通に生きていいんだという希望を、きっと子供ながらに感じたと思うのですね。テニスを始めて世界の壁とぶつかり、その衝撃が僕の人生を変えたともいえます。僕にとって、車いすが必要な身体になったことは逆境に違いないけれど、いまの自分をつくったきっかけでもある。誰がなんといおうと自分のなりたいように自分の未来を思い描こう……そのメッセージを、石巻の子どもたちに伝えたいと思っていたんです。その手ごたえを感じました。被災という桁外れに大きな逆境-それを乗り越え自立したい、強い人間になりたいという彼らのメッセージが、お互いにやりとりできた気がしました。聞いてる子たちの反応もすごくよくて、うれしかったですね。
それにしても、子どもたちのたくましさ、活力という意味では、都会の子より元気なんじゃないかな。被災地ではどうしても、大人たちは不安も悩みもぬぐえないから、疲れきっているでしょう。そんな中で子どもたちの元気な姿を見ることで、親も先生も勇気がわいて、未来を見据える助けになるはずなんです。
悲しい出来事がたくさんあったにもかかわらず、すくすくと健やかに育った子どもたちを見ていたら、彼らが未来を担うのだから東北はかならず復興できる、日本の未来は明るいと、思いました。
車いすテニスというフィールドで活動することでニュースになって、『あ、国枝さんも頑張っている』と思ってもらえるなら何よりだし、今回の訪問は自由に自立して生きるというサンプルを見せるという意味がありました。
自分自身にとっても、新しい価値観の生まれた一日だったと思いますね」
チャンピオンの義務
世界のトップに君臨し続ける国枝選手だが、二〇一一年は肘の故障に悩み、翌年二月には手術を受けリハビリも含めると八カ月間も実戦から遠ざかるアクシデントに見舞われている。しかし、決してあきらめず、第一、第二試合では一ゲームも落とさない驚異的な強さで、脳裏に描き続けたイメージどおりに、ロンドンパラリンピックで北京に続き二連覇を飾った。
「これからの最大の目標は、二〇一六年のリオパラリンピック。もちろん優勝を目指します。でもその間も、年間三カ月から四カ月は海外のツアーに出場しますが、そういったところで集中をとぎらせることなく勝ちつづけ、いいプレーを見せて、ひとりでも多くの方に感動を与えられたらと思います。
車いすテニスをめぐる経済的、社会的状況はそれほど目立っては変わらないですね。やはり与えられた環境で出来ることを精一杯やり、活躍して多くの方々に車いすテニスの存在を知ってもらうことがすごく大事。
車いすテニスについては、世界に目を向けるとジュニアの選手がどんどん出てきていて、実に喜ばしい状況です。でも、日本も大分ふえてはきましたけれど、国際競技レベルということに関していうと、まだまだ世界にはおくれをとっています。(デビスカップのような)国別対抗戦『ワールドチーム・カップ』があって日本はトップレベルといっていいのですが、そのジュニア部門にかつて一度も日本は出られていません。自分自身の一つの目標として、逸材を発掘したいし、ジュニアの大会やキャンプなどの活動を通じて何か手助けできたらと考えています。それが今後の車いすテニスの普及にもつながるはずです。この四年間、自分自身の競技プラスアルファというところで、やっていきたいことです。
そして、もうひとつ、復興応援で自分にできることを考えたい。被災地の復興に、どれだけの時間がかかるか計り知れません。その中で、せめて自分の目で見たこと、出会った人々のことを忘れない、必ず頭に置いておくということが、日本人としてすごく大事なことなのではないでしょうか。生で見たあの光景は頭に焼きついていますし、僕が行くことで少しでも力になれるのであれば、幾らでも行きたい。
復興するために、経済とか都市計画とか物的支援ばかりに目が向きがちだけれど、そこに暮らす人が希望をもてることは何か、と考えることも大事だと思います。僕は、子どもたちの未来の夢を応援したい。そこにスポーツのよさがあるし、自分の発したメッセージが彼らの将来に何かしら役に立てば、うれしいです。東北から世界に飛び出すテニスプレーヤーが生まれたら、なおさらうれしいですね」
ユニクロは、東日本大震災からの復興を応援するために店頭での募金、SAVE JAPAN! Tシャツの利益の一部を義援金として寄付、支援物資の寄贈、従業員ボランティアによる被災地での衣料配布など、様々な取り組みを行ってきました。こうした活動を通して、自立支援、雇用創出、経済復興につながる支援の必要性を強く感じています。ユニクロはいま、新たな活動を始めました。ユニクロの復興応援プロジェクトにご期待ください。
「考える人」2013年冬号
(文、取材・編集部/ 撮影・菅野健児(ポートレート)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。