プレスリリース

2013年10月10日

ユニクロ 障がい者雇用の実践~「考える人」2013年秋号~

~「考える人」2013年秋号(新潮社)より転載~
国際サッカー大会で活躍する総務マンが見る夢

総務・ES推進部
塩田知弘 (Shiota Tomohiro)

総務・ES推進部長
植木俊行 (Ueki Toshiyuki)

 ブルガリアのソフィアで開かれた聴覚障がい者のためのオリンピック「デフリンピック(=Deaflympics)」男子サッカーに日本代表として出場を果たした塩田知弘さん(二五)は、遠征を終えた八月、ファーストリテイリング本部・総務カウンターでの通常業務に戻っていた。
 グループ全体で千人を超える障がい者が働くファーストリテイリングだが、本部に勤務するのは東京と山口あわせて十人ほど。そのうちの一人である塩田さんが、仕事と週五日のサッカーの練習を両立させながら目指しているものとは何なのか、そしてまたユニクロが障がい者雇用を通じて社会に還元しようとしているものとは何か、話を聞いた。

 塩田さんの朝は早い。神奈川県内の自宅から始発電車に乗り、誰よりも先に出社して仕事に着手する。
「エンジンがかかるのが遅いですから」と謙遜して微笑むが、これこそ努力を惜しまない彼の姿勢の現れだといえる。
 総務カウンターとは、社内のよろず相談所のような場所で、IDカードの発行や社判の貸し出し、ロッカーの管理や郵便物の仕分け、代表電話の対応などの決まった業務に加え、日々、雑多な相談事が持ち込まれる。そこに次々とやってくる人々の話を聞き、問題ごとに適切な対応をしなければならないが、耳が聞こえない塩田さんにとって、相手の唇の動きを読みとって対話するのは容易なことではない。
「しゃべる訓練は小学生のころからやっていましたが、自分の出している声がわからないので、はじめはうまくいかなくて、外国の人に間違えられたりしていました。ある程度話ができるようになったのは高校生の時です」
 そう語る静岡生まれの塩田さんは、物心ついたときから耳が聞こえなかったが、聾学校には通わず、普通学級で教育を受けた。中学までは筆談中心だったが、東海大学付属翔洋高校在学中に〝喉から血が出るくらい〟の訓練を重ね、会話を身につけた。その訓練は、たとえばこんなものだったという。
「はじめは先生が舌の運動のために、一センチ四方くらいに切ったせんべいを舌の上にのせて動かす指導をしてくれました。それから、親が工夫をして、たとえば『た』の音なら、舌の上のせんべいを口蓋に当てて離すときに発声するとか、『か』なら当てずに喉の奥だけ動かすといった風に、ひとつひとつ動きを分析して練習を重ねました。ちょうど英語の勉強をするときに、単語に意味をつけて覚えるのと同じように、この音はこう出す、といった感じで覚えていきました」
 そう説明してくれるのも、音の出し方を考えながらしゃべっているのですか? そう尋ねると、「はい」の答え。すると、隣で聞いていた同僚の大友ルイさんが、「えっ、考えながらしゃべっているなんて気づかなかった」と驚きの声をあげた。そのくらい、塩田さんの言葉は自然に響く。実際には自分の声の高低もわからず調整は相当に難しいはずだが、塩田さんの語りは柔らかく、ピッチも高すぎず低すぎず、穏やかで心地よい。知らずにカウンターに来た人の中には、彼の障がいに気づかない人もいるという。

 東海大学開発工学部を卒業した塩田さんは、しばらくサッカーを続けながらアルバイト生活を送ったのち、二〇一一年にユニクロに入社した。その動機は、「おしゃれが好きで、服が好きだから。そして販売だけじゃなく、作るところからやっている会社の方が誇りを持って働けると思った」。ユニクロが障がい者雇用に力を入れていることは入社するまで知らなかった。だが、入ってみると、「甘やかされず、いろんなことにチャレンジできる環境があって」、入社してから好きになったと語る。
 店舗での最初の仕事は、裾上げなどの裏方仕事だった。しばらくして、塩田さんは接客の仕事に挑戦したいと店長に願い出る。耳が聞こえなくては接客業は難しいという世間の先入観を壊したい、かねてからそう考えていたからだ。
 マスクをしていて唇が読めないお客様の相手など、できないことは当然ある。だが、そんな時は同僚の助けを借りればいい。お客様の理解も得られ、次第に「ありがとう」という感謝の言葉を受け取る機会も増えてきた。やりがいのある日々だったが、あるときから塩田さんは本部勤務に興味を持った。
「具体的な仕事はわからなかったけれど、ひとつの店舗で働くだけでなく、世界中の店舗を支える本部の存在を知って、そこで仕事をしてみたいと思ったんです」
 運良く、植木俊行総務・ES推進部長と話す機会があり、希望を伝えた。その経緯を植木部長がこう振り返る。
「JICA(国際協力機構)が招いた東南アジアからの視察団を神奈川県内のお店で受け入れるときに、山口本社の障がい者雇用担当の井上幸司さんが受け入れ先として塩田さんが働いている店舗を選びました。サッカーをがんばりながら、接客に取り組んでいる若い人がいる店だと。その話を聞いて以来、塩田さんに会ってみたいと思っていました。
 その後、昨年秋に佐賀県の青年会議所が開いたセミナーにパネリストとして招かれたときに塩田さんのことを思いだし、『現場で働く人間も連れて行きたい』と申し出て、彼と一緒に出かけたのです。セミナーの前夜、二人でいろんな話をしました。『子供たちにスポーツの大切さや楽しさを伝えたい』という気持ちや、『障がいがあるからこそ持てる、店やお客様への視線がある』という考え、そして『仕事やスポーツを通して世の中を良くしたい』という彼の熱い思いがよくわかりました」
 塩田さんは部長にアピールしたからといって、本当に本部勤務になるとは予想していなかったが、去年十二月、店舗に足を運んだ植木部長から直接「一緒に働きましょう」と内示を受けて、今年二月に異動が実現した。

 法が定める障がい者雇用率が二%という中で、ファーストリテイリンググループの雇用率は約六・六%と図抜けて高い。だが、最初からそうだったわけではない。その歩みを植木部長が語る。
「社長の柳井がユニクロで一店舗一名は障がい者を雇用するという目標を掲げたのが二〇〇一年のことでした。当時は法定雇用率さえ満たしていない一・二七%でした。業績が伸びてブランドも知っていただくようになる中で、我々にできることは何か、社会に還していけることは何か、と考えた結果、出て来た答えのひとつが障がい者雇用でした。この取り組みは、『服を変え、常識を変え、社会を変えていく』という社是を結果的に実現することになりました。
 そしてこれは、社会への還元というだけでなく、すべての店舗で障がいのある人と一緒に働くことで、実は我々自身得られるものが非常に大きいこともはっきりしてきました。
 以来十二年の取り組みの結果として、現在、グループ全体で千名以上を雇用、九六%以上のユニクロの店舗で障がいのある人が働いています。ただ、柳井はあくまで一〇〇%という数字を大事にしており、今朝もまた一〇〇%にこだわれという明確な指示を受けました」
 当然、一〇〇%の店舗にこだわりながらも、それ以上に雇用の質にこだわることが重要だと植木さんは言う。
「障がい者雇用を担当するようになって七、八年ですが、最初は私は雇用率を気にして目的を見失ってしまうことがありました。でも、どんなに障がい者の雇用を増やしても、ビジネスの成長と共に社員全体の数が増えて母数が大きくなれば、否応なく雇用率は落ちてしまう。だから、そんなものを気にしても仕方がない。大切なのは、障がいがあろうとなかろうと、働く人が能力を生かして、やりがいを持って、楽しく仕事できる環境を整えること。そして、障がいのある同僚への気配りや心遣いを身につけることは、必ずお客様へのサービス向上につながっていくと考えたのです」
 現在、国内のユニクロで働く障がい者のおよそ七割程度が重軽度の知的障がい者。発達障がいを含む精神障がい者が一割程度で、二割程度が重軽度の身体障がい者だ。障がいの種類や程度によって、それぞれできないことや難しいことがある。一方で、その人にあった仕事であれば、熱心に丁寧に、根気づよくやってもらえることが多いと植木さんは語る。ユニクロのように仕事の種類が多い職場だからこそ、個々人にあう仕事を見つけることができるのだという。
「塩田さんの仕事も本当に丁寧です。メールの言葉使いひとつとっても、彼がしてきた苦労がぜんぶ生きている。初めて会った人とうまくコミュニケーションできないこともあるけれど、彼はめげない。二回目に会ったときにはうまく対応できるし、仮に言葉が一〇〇%伝わっていなかったとしても、気持ちはつながっているのがわかる。それが彼のすごいところ」
 世界にビジネスを広げるユニクロでは、海外店舗でも障がい者雇用を広げる努力を続けている。国によってはハードルが高いところもあるが、現地のアドバイスを得つつ、すでに百人を超える雇用が進んでいる。
「自分たちだけでやろうとしたらうまくいかない。行政や支援団体、家族と緊密に連携していけば、助けてくれる人はたくさんいる。様々な企業から、障がい者雇用がうまくいかないという相談を受けるのですが、いつも言うのは、『自分たちだけでやらないでください』ということです」

 冒頭触れたデフリンピックに話を戻そう。塩田さんも出場した昨年のアジア太平洋ろう者競技大会では優勝、デフリンピックでもメダルを期待されていた日本代表チームだったが、ロシア、ナイジェリア、アイルランドと戦った予選で二敗一分。まさかの予選敗退となった。二試合に出場した塩田さんは、「今まででいちばん悔しかった。胸を張って帰る自信がなかった」と振り返る。
 しかし、その眼は確実に次の大会を睨み、午前七時から午後四時までの勤務を終えて帰宅すると、夜は地元サッカーチームと一緒に連日トレーニングを重ねている。
 塩田さんにとって、サッカーは人生修養の場だった。小学三年生ではじめたとき、うまくみんなの輪に入れず、やめることも考えた。すると両親は「そんな弱い子に育てた覚えはない。輪に入れないなら自分で輪を作ればいい。強くなればみんなついてくる」と諭したという。
 それは人生の大きな転機だった。気がつけば、みんなが話しかけてくれるようになり、人生の歯車が動き出していた。審判の笛が聞こえない、仲間や相手の声が聞こえないといったハンディがありながら健常者チームでプレーを続け、高校一年生の時には、サッカー強豪校がひしめく静岡県の新人戦県大会でベスト8。高校総体でも県ベスト8、二年生の時には新人戦県大会で準優勝、高校総体県ベスト8と、実績を積み上げた。エースナンバー10を背負ったこともある。
 デフリンピックに出発する前、およそ千人の社員が集まる月に一度の一時間の朝礼、いわゆる「月度朝礼」で、塩田さんはスピーチをした。
「この大会を通じて、障がいという壁はまわりの支えで乗り越えられること、障がいがあっても凄い力を発揮できること、無限の可能性をもっていることを世の中に伝えていきたいです。応援よろしくおねがいします」
 目に涙を浮かべて聴きいる人たちがいた。フェイスブックには六千通を超える応援メッセージが届けられた。総務カウンターを通りかかる仲間たちは、彼に習った手話であいさつしていった。「がんばって」と。
 塩田さんの当面の目標は、幅広い業務をこなせる一人前の総務マンになること(そのためには多国籍の同僚とコミュニケーションできるよう英語の勉強も重ねている)。健常者と障がい者のパイプとなり、ファーストリテイリングならではのお客様や従業員に対するサービス、チームワークなど、壁のない世界を作り上げる事に貢献する。そして二〇一七年にトルコで開催予定の次回デフリンピック日本代表に選ばれ、金メダルを獲ること。大きな目標だが、この人ならきっと達成するだろう。

ユニクロは世界中のどの店舗でも、従業員の一員としてお客様や社会に貢献できる人、そのために必要な能力・人柄を備えているという基準で人材を採用しています。障がいのあるスタッフも例外ではありません。海外でも障がい者雇用の取り組みは進展しており、韓国では2010年10月にスタート。去年はフランス、シンガポール、マレーシア、台湾、今年はタイ、香港でも取り組みをはじめました。グローバルな視点を持ち、世界中で社会から必要とされる企業になりたいと考えています。

「考える人」2013年秋号
(文、取材・編集部/ 撮影・菅野健児
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。