2014年04月07日
ユニクロ復興応援プロジェクト[前編]~「考える人」2014年春号~
~「考える人」2014年春号(新潮社)より転載~
本店舗がやって来た
ユニクロ前気仙沼店店長
早野聡一 (Hayano Toshikazu)
気仙沼市産業部長
熊谷英樹 (Kumagai Hideki)
気仙沼市産業部産業再生戦略課長
加藤正禎 (Kato Masayoshi)
気仙沼市産業部産業再生戦略課課長補佐兼企業戦略係長
伊藤隆元 (Ito Takamoto)
二月二十五日、宮城県気仙沼市の東新城地区に新しい信号機が設置された。ほんの数年前までは田んぼや畑が広がるのどかな田園地帯。そこに3・11東日本大震災の後、新たな商業集積地区が誕生し始めている。交通量が増えるにつれ、信号機が必要だと地元警察が考えたのも当然のことである。
「ここにユニクロさんが本店舗を構えてくれたことがどれほど嬉しいニュースか」──市の職員たちは口を揃えてそう語った。オープンは昨年十一月二十九日のことである。震災から一年後にオープンした仮設店舗の三代目店長として、昨年三月に赴任、そのまま本店舗の初代店長となった早野聡一氏に話を聞いた。
「仮設とはいえ、自分にとっては初めての店長。高揚感がありました。ただ、気仙沼という被災地に着任するわけですから、よそとは違う重い責任感を感じていました。それなりに予習もしてきたつもりです。ところが、実際に来てみて震災の被害が想像を遥かに超えていたことを知りました。それなのに、いや、それだからこそ、スタッフが仕事に真摯に向き合って、笑顔で働いていることに、自分はものすごく感動しました。三十坪しかない売場だけれど、何とかお客様に来ていただこうと店の外まで呼び込みに行く姿を目で追いながら、自分は彼らのために何ができるのか、と考えました」
店の中でも外でも、「店長さんですね。気仙沼に来てくれて本当にありがとう」と何度も声をかけられたという。「この地域のために少しでも役に立つことができれば」という思いが深まれば深まるほど、「本店舗のオープンは一種の使命ではないか」とさえ考えるようになった。
震災から「復興支援」へ
振り返れば、三年前の震災の翌日から、ユニクロの被災地支援の活動は始まった。CSR部では、これまで海外の難民・避難民の支援活動を通じて付き合いのあったNGOなどに声をかけて、衣料の緊急支援を第一に、ただちに被災地でのニーズ調査を開始した。その後は社員ボランティアを募りながら、通称「衣料お届け隊」が頻繁に現地へ赴き、衣料の直接配付を実施した。そして、緊急対応の時期から「避難」のフェーズへ、さらには中長期的な「復興支援」へと、活動の軸足を移していった。
被災地で活動しているNGOとの協働復興支援と、被災地での仮設店舗開設を二本柱に据えた「ユニクロ復興応援プロジェクト」が立ち上がったのは、二〇一二年二月のことである。いずれも、「服のチカラで復興に向けて何ができるのか、何を期待されているのか」を考え抜いた上での結論だった。
そして同年三月九日、ユニクロ気仙沼店、シープラザ釜石店がともに仮設店舗としてオープンを迎える。震災からそこに至るまでの道のりを、出店開発チームマネージャーの伊藤晃氏に伺った。
「通常の新規出店とは次元の違うプロジェクトだという位置づけで、復興のためにやるんだという強い信念でした。二月初旬に具体的にやろうという方針が決まり、三月九日にオープン。わずか一ヵ月という準備期間は、当社始まって以来最速でのオープンとなりました。
諸条件を勘案して、気仙沼、そして釜石に二店舗を出そうという結論に至り、ともに『一年限定の仮設店舗』という条件で、釜石は市の公有施設内に八十坪のスペースを、気仙沼は地権者のご理解を得て三十坪の店を確保することができました。
印象的だったのは、やはりオープンの日です。朝からお客様が寒空の中で開店をお待ちいただく姿。お母さんと娘さんが楽しくご相談されながらお買い物をしている姿。ご家族のサイズを悩んでいる姿。どれもが感動的で、いまでも目に焼きついています。気仙沼は狭い店で、商品は絞り込んだアイテムしか揃えられませんでしたが、それでも両手いっぱいになるほど、お買い物をしていただいた後ろ姿を見ながら、『大きなお店でもっと楽しくお買い物していただけるように、一年後を目途にさらに広い場所を見つけよう』と思っていました。営業担当役員が『一年後には本設店舗をやります』と対外的にも約束してくれ、このことをきっかけに私は翌週より、再び用地検討へと動き始めました」
お世話になった人たちのために
本設店舗の候補地として選んだのが、気仙沼市東新城の現在の地である。高台で津波の被害を受けていない新興住宅エリア。地主の方も「二〇一三年春オープンに向けてできることは全て協力するよ」とあたたかい言葉をかけてくれた。夏には畑で穫れたスイカを頬張りながら、打ち合わせを進めていた矢先、大きな試練が訪れた。
「十二月になって、ゼネコンさんから連絡が入って、建築コストが急騰しているため、計画通りに進めることが困難、という厳しい提案がなされました。オープン日も迫っていたため、トップの判断のもと、社内の各部署と建物の仕様を再検討したり、可能なかぎりの調整を図って、半年遅れにはなってしまいましたが開店の目途をつけることができました。その際感激したのは、地主さんが嫌な顔一つ見せずに『いいよ。何とか十一月に向けて頑張って下さい』と言ってくださったことです。仮設店舗のほうでも継続できるギリギリの期間まで、地主さんにご協力いただきました。皆様のお言葉がどれほど後押しになったことか分かりません。このプロジェクトは一人では決してできなかったことです。携わってくださった全ての皆様に感謝しています」
伊藤氏は震災前から東北エリアの担当だった。大震災は仙台で遭遇した。途方に暮れるような大混乱の中で、見ず知らずの人たちがお互いに助け合う場面を目の当たりにした。そして自分自身もまた、東京に戻ってくるまでに、どれほど多くの地元の人たちの善意に支えられたことか。それが忘れがたい経験となっていた。「お世話になった人たちのために何かしなければ」という思いが、その後の日々の支えとなった。
復興を勇気づけた狼煙
気仙沼の本店舗が完成した時、「涙が溢れそうになった」と早野氏は言う。仮店舗にこぎつける前から、いろいろな人たちが大変な思いをしながら、努力を積み重ねてきた。それがこうして結晶したのかと思うと、真っ白な壁に浮き上がっている「UNIQLO 十一月二十九日オープン」という赤い文字が滲んで見えたという。
「お蔭様で、オープンから現在まで売上は予想以上の推移を見せています。とはいえ、お客様の期待値に対して、まだ自分たちにはそれを充分に受け止められるだけのものが備わっていないと感じています。たとえば、オープン直後の繁忙期に、笑顔を忘れたり、対応に充分気がまわらないところもありました。いまの私たちのスキルやスピードでは、お客様の求める満足度には達していないと思っています。
店から一歩外に出れば、被災地の厳しい現実はまだ依然として続いています。せめてここへいらした時には、自分の気に入った服を買う喜びを満喫していただきたい。われわれは服を通して、そうした気持ちの温かさを実感していただけるようにしなくてはならない。そういうプラスアルファのおもてなしをするためには、まだまだ基本的なところをしっかり固める時期だと思います」
緊急支援から仮設店舗へ、仮設から本店舗へ。この三年間の歩みを支えたプレイヤーとしては地元の行政マンたちも欠かせない。あくまで「自分たちは黒子」としながらも、献身的な支援と理解を示してきた。気仙沼市役所で、当初からユニクロ進出の過程に関わってきた熊谷英樹産業部長、そして最前線で尽力した伊藤隆元産業部産業再生戦略課課長補佐兼企業戦略係長は、「ユニクロが本腰を入れて進出を決めてくれたこと、継続的なビジネスを通じて地元を潤していこうという姿勢を見せてくれたこと。これがどれほど嬉しかったか」と強調する。あの日から三年、「本設店舗はいろいろな人たちの思いや願いが詰まった店だ」とも。
このプロジェクトの進展を傍から見ながら、いま産業再生戦略課長として新たにその輪の中に加わった加藤正禎氏も語ってくれた。
「ボランティアの方たちに多くの緊急支援をいただきました。ずいぶん助けられました。しかし、震災から三年が経ち、その中でユニクロさんがここに踏み留まって、本格的なお店を作って下さいました。ユニクロという若者たちの憧れの企業が、この被災地でも普通のビジネスをやっていけるんだぞ、という狼煙を上げて下さった。それが嬉しいんです。私たちの励みになるんです。
企業誘致といってもなかなか一気に進むものではありません。ユニクロのような若者が魅力を感じるブランドが来てくれて、そこに雇用が生まれ、波及効果として人が集まり、土地が賑やかになっていく。私たちもさらに前に向かって歩いていこうという元気が出てきます」
東新城地区の信号機は、そうした地元の熱意と期待を受けとめながら、賑わいを増す街角で点滅を続けている。
東日本大震災から3年が経過し、復興は進んでいるものの、いまだに地域の住民の方には不便なことが多いと思われます。通常店舗の出店により、服を選ぶ喜びや買い物をする楽しさを通じて、少しでもお役に立ちたいと考えています。ユニクロは被災地を応援し、サポートを続けていきます。
「考える人」2014年春号
(文、取材・編集部/ 撮影・上岡伸輔、菅野健児)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。