2014年10月09日
瀬戸内オリーブ基金ボランティア活動~「考える人」2014年秋号~
~「考える人」2014年秋号(新潮社)より転載~
白砂青松を取り戻せ
豊島を支えるスタッフの汗
シルクロードを命名したドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは、瀬戸内海の美しい景観を指して「広範にわたる優美な景色で、これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と絶賛したという。その瀬戸内海が日本初の国立公園に指定されたのは、一九三四年。いまからちょうど八十年前のことだった。
近年は「瀬戸内国際芸術祭」で世界から熱い視線を浴びる地域の一角で、この四十年間、国立公園内の出来事とは信じがたい、ある死闘が繰り広げられてきた。日本における最大規模の有害産業廃棄物不法投棄、いわゆる「豊島事件」である。
九十万トンを超える産業廃棄物が不法に投棄されたこの事件をきっかけに、瀬戸内の美しい自然を守り、再生することを目指して、建築家の安藤忠雄氏と弁護士の故中坊公平氏が呼びかけ人となって創設された瀬戸内オリーブ基金を、ユニクロは設立直後の二〇〇一年から支援してきた。レジ脇に置かれたオリーブが描かれた募金箱は店舗でおなじみの光景となっている。
しかしながら、職場で毎日募金箱を目にしているユニクロ店舗スタッフとはいえ、瀬戸内オリーブ基金はどんな活動をしているのか、そもそも豊島事件とは何なのか、集まった寄付はどう使われているのか、実感を伴って十分にわかっているとは言い難い。そのため、二〇〇三年からスタッフが現地で環境整備活動に従事するボランティア活動を推進してきた。これまでに全国店舗からのべ約千名が参加したという。
終わっていない「豊島事件」
真夏の陽射しが照りつける高松港に集合したのは、群馬から沖縄まで各地の店舗からやってきた三十人。七十人近い応募者の中から選ばれたという。
「ずーっとボランティアに参加したいと思っていたのですが、なかなかチャンスがなくて、今回やっと来ることができました」
「何度も来ています。わからないことは聞いてください」
「入社内定していて、いまアルバイトをしています。よろしくお願いします」
輪になっての自己紹介は和気藹々、どこか遠足のような高揚感が感じられた。だが、四十分ほど船に揺られて豊島に到着し、廃棄物撤去作業が続く投棄現場脇の施設に入り、瀬戸内オリーブ基金担当者の話を聞くうちに参加者たちの表情は引き締まったものになっていった。
事件の概要説明にあたったのは、一九七五年に帰島して以来ずっと産廃闘争を主導する住民運動に関わってきた廃棄物対策豊島住民会議事務局長の安岐正三さん。瀬戸内オリーブ基金にも企画委員として携わり、ボランティア受け入れを担当している。
かつて自然に恵まれた「豊かな島」として知られた豊島で、一九七五年に土地所有者が産廃処分場建設計画を立て、島民の強い反対にもかかわらず、その後香川県が事業許可を与えた結果、島外から大量の産業廃棄物が運び込まれた。連日黒煙をはく野焼きが行われ、島民にぜんそくなどの健康被害をもたらし、土壌や水の汚染が広がった経緯を安岐さんは説明した。
一九九〇年、地元香川県警ではなく、兵庫県警が「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」の容疑で業者を摘発。ごみの運び込みは止まったものの、当事者能力を失った業者と責任回避をする行政の狭間で、廃油や汚泥などの有害な廃棄物は放置された。島民たちは、香川県に責任を認めさせ、産業廃棄物を処理させて元通りの自然を取り戻すべく、中坊公平弁護団長の指揮の下、公害調停を申請。長く苦しい闘いの末、二〇〇〇年六月に県との間で最終合意が成立した。小さな島の住民たちの勝利だった。
とはいえ、有害産業廃棄物の処理が始まって十年以上を経た今も、地中から中身が入ったままの錆びたドラム缶が見つかったり、大雨や台風による処分地の水没など予測不能な事態が頻発。廃棄物量は最新の推計で百万トン近く存在することが判明し、最終的にいつ撤去が完遂するのか未だ見通しは立たないという。
「かつて豊島の住民は地下水を飲んでいた。きれいな水がとれる土地だった。その豊かな島に返してくれ。私たちの願いはただそれだけ。豊かな島を次の世代に渡すこと、それが豊島の願いです」
安岐さんは続ける。
「豊島の教訓を世界に伝えなければならない。こんなことは二度と起こしてはならない。利益優先の業者、行政の怠慢と不作為、過疎化と高齢化、地域社会の衰退。この要件がそろえば不法投棄はどこでも起こり得ます。
都会の便利な生活で出たごみが目の前から消えたとき、ツケは過疎地に回されている。福島原発しかり。それを知っておいて欲しい。大量生産・大量廃棄のライフスタイルを変えなければいけない。効率のみを追求して、人は幸せになれるのか、豊かになれるのかを問い直さないといけない。問題が起きたとき、誰かが何とかはしてくれない。棚ボタはないんや、ということを覚えて帰ってください。自分が動く。石を拾う、木を切る、痛くて血が出るかもしれないけれど、できることからやる。ヘタでもええからプレーヤーになってください」
中坊弁護士と二人三脚で島民をまとめ、悪徳業者と行政を相手に闘ってきた人の言葉の重みに、みな圧倒されていた。
「社会に恩返しを」
その後、投棄現場近くの「柚の浜」に移動。ここが今回の作業現場だ。
瀬戸内オリーブ基金では、昨年から地元住民と協力し、この浜辺を含む一帯の国立公園をもとの美しい姿に戻す「豊島・ゆたかなふるさとプロジェクト」を進めている。基金事務局長の伴場一昭さんがその目的を語る。
「私たちが目指すのは、この土地を国立公園に指定された当時の状態に戻すことです。住民運動をがんばってきた人たちが、なつかしい風景が戻ってきたと喜んでくれたらよいと思います。そして、戻った国民共有の財産である国立公園を次の世代に渡していく」
かつては白砂の浜辺として知られた柚の浜も、昨年のプロジェクト開始時には草木が生い茂り、石が転がるなど荒れていたが、地元住民らの地道な働きで徐々に本来の姿を取り戻しつつある。この日、ボランティアに与えられた作業は、基金設立当初に植樹されたオリーブ園とその周辺区域の整備。伐採木の運び出し、その木材を堆肥にするためのチップ作り、そしてオリーブの成長の妨げとなる石の除去。それぞれの作業は単純労働だが、基金の人たちの説明を聞いたあとだけに、それぞれ単に石を拾ったり木を運んだりしているのではなく、汚された国立公園の白砂青松を回復するという大きな目標達成のための一助だという明白な認識のもと、流れる汗を拭いつつ、黙々と体を動かしていた。
石拾いをしていた、グループ企業ジーユー入社二年目、東京・西多摩のザ・モールみずほ16店に勤める鶴田千絵さん(前ページ左中)は、大学時代は農業開発を専攻。CSR(企業の社会的責任)活動に興味があってファーストリテイリングに入社した。「ボランティアに参加したかったんですけど、『まずは店長代行者試験に受かってからね』と言われて、それもそうだなと。先々週受かったので、やっと来ることができました」と、うれしそうだった。
高松港での自己紹介で「ずーっと来たかった」と満面の笑みで語っていたのは、千葉のミハマニューポートリゾート店から来た萩尾美夏さん。パートでユニクロに入ったのは、女手一つで三人の子供を育てるためだった。他に二つの事務職との掛け持ちで奔走するなか、興味はあったもののボランティアにはなかなか参加できなかった。今年一月、末娘が成人し、自身も転勤を伴わず地元の店舗で働き続けられる「地域正社員」として採用され、少しずつ自分のやりたいことができるようになってきた。
「チャンスさえあれば、ボランティアはどんどんやりたい。一人でどんなにがんばってもできることには限りがあるけれど、企業の一員としてなら、たとえ末端でも大きな動きの一部になれる。これってすごいことだと思うんです。子育ては地域のみなさんに助けてもらった。間接的だけど、社会に恩返しできるものは返したい。汗をかくことならいくらでもできますから、恩返しがしたい」
入社十八年目にしてボランティア初参加だったのは、売場面積八百坪の大型店・池袋サンシャイン60通り店で三百五十人ものスタッフを束ねる松尾広紀店長。広島出身で高松市内の店舗に勤務したこともあり、瀬戸内は縁の深いところだ。
「子供ができてから環境問題には関心を持っています。特に原発事故以降、考えざるを得なくなった。物事を考えるとき、自分が信じられると思う人のいる現場に行って実際に体験することが大事だと思っているので、今回ボランティアに参加しました。
印象的だったのは安岐さんの言葉です。行政相手に無謀と思えても信念を貫いて立ち向かった姿に感銘を受けました。加えて、CSRと日々の商売が同じものであるのも再確認しました。価値ある品物をお客様に提供するのは、それ自体が社会貢献活動です。二つを分けて考えると矛盾すると思います」
松尾さんの脇で、風にそよぐオリーブの木には緑色の実がふくらみ始めていた。十一月、オリーブは収穫の季節を迎える。
豊島など瀬戸内海の島々や沿岸部にかつての豊かな自然を再生することを目的にスタートした瀬戸内オリーブ基金の活動趣旨に賛同し、ユニクロは2001年から店舗での募金活動を行ってきました。2011年にはジーユーでも募金を開始。豊かなふるさとを次世代に引き継ぐための活動を支援しています。募金へのご協力をお願いします。
「考える人」2014年秋号
(文、取材・編集部/ 撮影・菅野健児)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。