2015年10月15日
BACKSTAGE REPORT - 難民の自立を支援するインターンシッププログラム
~「考える人」2015年秋号(新潮社)より転載~
ユニクロで働く難民スタッフの悩みと喜び
パイミンタンさん(以下、ミンさん)はその日、初めてレジの練習をした。「覚えることがたくさんあって難しい」と苦笑しながらも、テキパキと商品のバーコードを読み込んで、ギフトカードの処理の仕方や紙幣をすばやく正確に数える方法などを学んでいく。
ところが順調に進むあまり、途中でうっかり「練習」ボタンを押すのを忘れて、売り上げを計上してしまった。取り消しの処理をするため、書類に「捺印して」と指示された彼は、戸惑うことも問い返すこともなく、さっと自分の印鑑を出して押した。
事情を知らずにこの光景に遭遇したら、よくある新人研修の一コマに見えたに違いない。だが、ミンさんが少し前まで日本語を全く知らなかったミャンマー難民(難民認定されたミャンマー人の呼び寄せ家族)と知れば、一転して驚きの光景となる。彼は、ユニクロがUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とのグローバルパートナーシップの一環として進める「難民インターンシップ」プログラムを通じて正規雇用した十人のうちの一人として店頭に立っている。
指導するユニクロ・アトレヴィ大塚店の山下泰静店長は、ミンさんのことを難民だからといって「特別扱いしない」という。「一人のスタッフ、一人の人間として、チームの中に受け入れることが大切。実際、彼がこちらの言うことを理解できているのがわかるから、特別扱いの必要がないのです」。
ミンさんが成田空港に降り立ったのは昨年七月のこと。出迎えたのは、生後半年で生き別れた父親だった。難民認定された日本で家族の呼び寄せができるようになり、ようやく息子を迎えることができたのだ。ミンさんは再会の喜びをこう振り返る。
「お父さんは何もいわずに、ただ抱きしめてくれました。それから『君、大きくなったね』と。お父さんを知らずに育って、ずっと会いたかったので、すごくうれしかったです」
「ユニクロをモデルケースに」
ミンさんのように日本語をほとんど知らず日本にやってくる難民に、言葉や生活習慣を教えるなどの定住支援を行っているのは、アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ=Refugee Assistance Head Quarters)。政府の委託を受けて難民の定住促進を行う公益財団法人であり、二〇一一年に開始された「難民インターンシップ」プログラムにおいてユニクロと協力関係にある。
RHQ企画調整課長補佐の大原晋さんによると、日本に暮らす難民は大きく三つのカテゴリーに分けられる。
まず、一九七〇年代後半以降ベトナム、ラオス、カンボジアから逃れてきたインドシナ難民約一万千三百人。次に難民条約の定める要件(人種・宗教・国籍・特定の社会的集団や政治的意見を理由として迫害を受ける十分に理由のある恐怖がある)に該当する、いわゆる条約難民約六百三十人。そして、二〇一〇年にアジアで初めて日本が受け入れをはじめた「第三国定住」(自国からタイなどの難民キャンプに逃れた人たちを定住のために第三国が受け入れる制度)難民約九十人。日本の場合、条約難民と第三国定住難民のほとんどがミャンマー出身者だ。
インドシナ難民の第一世代には介護の必要な高齢者が出始めている一方、その子や孫の世代は言葉や生活習慣に不自由なく日本人と変わらない生活をしている人もいる。出身国や難民とならざるを得なかった事情や年齢などの違いにより抱える問題はそれぞれだが、定住当初の日本語習得や就労、子供の就学、あるいは保証人がいないことによる賃貸契約の困難など、難民に共通する問題がある。
そうした問題解決を手助けして定住を支援するRHQは、難民雇用などでユニクロと同様の協力関係を結ぶ他の企業にも取り組みを広めていきたいと考えている。大原さんは語る。
「難民をインターンとして三ヶ月から半年受け入れて、その後、正式に雇用するような取り組みを、社をあげて体系的にやっているところは他にありません。ユニクロでは研修もしっかりあって、ステップアップの道が用意されている。将来店長を目指すと明言している人もいるくらい、難民のみなさんは希望をもって働いています。
これまで難民の就職先というと、多くは工場や工事現場など、言葉を使う機会が少ない仕事場が多かった。ですが、ユニクロのように店頭に立って日本語を使う仕事をすればいっそう日本語も上手くなる。こういうケースがもっと広がっていけばいいと思います」
難民スタッフコンベンション
七月末、ユニクロの東京本部で二回目となる「難民スタッフコンベンション」が開かれた。七人の難民スタッフが一堂に会し、ユニクロで働く基本的心構えから店頭での言葉遣いや所作など、マニュアルを確認しながらお客様の満足度を高めるための方策を学んでいく。まだ日本語が十分ではない人は時折先輩たちに通訳してもらいながら、熱心にメモを取った。
この日の講師はCSR部の岡田恵治さん。「おしゃれと身だしなみの違い、わかりますか? おしゃれは自分が気持ちいい。身だしなみは相手が気持ちいいことです」「言葉は正しく使ってください。日本人でも『よろしかったでしょうか』とか、試着室で『どうですか』とか間違って言うことがあります。『よろしいでしょうか』『いかがですか』と正しい日本語を使ってください」と、細やかな指導をしていく。
「最初、わからなかった言葉はありますか?」
岡田さんの問いかけに、難民スタッフたちは「ありすぎて……」と苦笑。そのあと、「商整=商品整理」「たたき=ズボンの裾上げなどのミシン仕上げ」といった店内用語のおさらいをしていった。岡田さんは言う。「難しいですよね。僕もこれを外国に行って、その国の言葉で説明しろと言われたらきっとできないと思います」。
日本との文化の違いにも話は及んだ。たとえば、ミャンマーでは学校などで目上の人の話を聞くときの基本姿勢が「腕組み」なのだそうだ。岡田さんは笑いながら念を押す。「お店で腕組みしてはだめですよ。日本では偉そうだと受け取られますからね」。
二〇一三年秋に四ヶ月のインターンシップに参加し、昨年、難民スタッフとして初の正社員となったチンハウルンさん(以下、ハウルンさん)が、文化の違いからくる困難さを語る。
「難しかったのが笑顔を作ること。ミャンマーでは女性が一人で外を歩くと男性に声をかけられるので、身を守るために真顔で歩くのが常識でした。ユニクロで働くようになって、他のスタッフの笑顔を真似するうちに、ようやく笑えるようになりました。
もうひとつ難しかったのが言葉遣い。日本に来て最初のアルバイト先は飲食店でした。敬語は必要なくて、むしろ・タメ口・の方がお客さまにおもしろがられたりしたので、ユニクロで働き始めたときも、『できない』『わからない』『嫌です』とお客様に言ってしまって怒られました。わからない言葉も多かったし、お店は忙しいのに自分は役に立っていないと落ち込んだこともありました。
でも、そんなときに店長が『あなたは今、難民でも外国人でもなく、同じユニクロのスタッフとして一緒に働いている仲間だ。自分だけ違うと考えなくていい』と言ってくれて、本当に勇気づけられました。がんばろう、楽しく働こうと思いました」
ハウルンさんは、休みの日には他の店舗で働く難民スタッフに日本語を教えたり、仲間の相談にのるなど、今では難民スタッフの中心的存在として大きな役割を果たしている。この日のコンベンションのような集まりは、ふだん別々の店で働く難民スタッフにとって、研修の機会であると同時に貴重な交流の場でもある。ある人は昼食用にミャンマー風チキンカレーを持参して、みんなと一緒にふるさとの味を楽しんだ。
「慣れない環境で、それぞれに辛いことがある。小さなことでもため込まずに、電話したり会ったりして相談しあうようにしています」と、ハウルンさんは言う。
今はほがらかに笑うハウルンさんだが、ミャンマーで経済学を学んでいた大学時代、政治的な活動に参加したことをきっかけに故国を離れ、日本にいた親戚を頼って観光ビザで来日。難民認定されるまでの数年間はずっと祈って暮らしたという。「認定されなかったらどうしよう」という不安な気持ちの記憶はそう簡単には消えない。
コンベンションの締めくくりに、参加スタッフの一人が先輩の助けを借りて書いてきた手紙を朗読した。あいさつを返してもらえなくて悲しい思いをしたことや、日本語の力が足りなくてわかってもらえず悲しかったことを率直に述べたあとで、こう締めくくった。
「うれしいのは、理解してくれる人がいること。手伝ってくれる人がいること。励ましてくれる人がいること。いまは仕事が楽しい。私のお店に難民スタッフが来たら、自分が知っていることを教えてあげたい。私をユニクロに紹介してくれた(RHQの)添田さん、ありがとうございます」
難民は、遠いヨルダンやスーダンにいる人ばかりではなく、この日本にも隣人として数多くの人が暮している。彼らが仕事を得て、安心して日本で生活していくための入り口のひとつに、「難民インターンシップ」プログラムがある。
難民インターンシップは、日本で難民として認定され定住が認められた人とその家族を対象に、日本国内のユニクロ店舗で就業体験の場を提供し、持続的に自立を支援する取り組みです。2011年の受け入れ開始からこれまでに13人が参加し、10人が本採用されました。
「考える人」2015年秋号
(文、取材・編集部/ 撮影・菅野健児)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。