キース・ヘリング1stエキシビジョン
2022.03.03

盟友が語る、キース・ヘリングデビュー展覧会の全貌。

キース・ヘリング1stエキシビジョン

キース・ヘリングの最初のメジャーソロエキシビションが 催されたのは1982年。その展覧会での作品が、今回UTの新作デザインとなって登場する。商品化されるのも初めてという作品のデビューイベントについての話を聞いたのは、キース・ヘリングの長年のビジネスパートナーだったデービッド・スタークさんとヘリングの大親友だったギル・バスケスさんのふたり。訪れたのはヘリングが当時実際に使っていたアートスタジオだ。

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Tシャツで蘇るArt for allのマインド。

アメリカ・ペンシルベニア州に生まれ、1978年にニューヨークに移ってからは「SVA」(スクール・オブ・ビジュアルアーツ)に在学しながらクラブイベントなどで作品を発表していたものの、まだストリート・キッズの面影を残していたキース・ヘリング。そんな彼が、“アーティストのキース・ヘリング”になるきっかけとなった重要なマイルストーンといわれているのが、1982年に当時はソーホーにあった大手画廊「トニー・シャフラジギャラリー」で行われた個展だ。

「このショーの意義はとても大きいもので、キースがアート界で初めて正式なオープニングを行ったものなのです。また、今こうやって振り返ってみると、この展示の前までは、広々とした白い壁の空間にただ絵が飾ってあるだけというのがギャラリーでのお決まりの展示形式でしたが、キースはギャラリーのあり方を考え直したかったので、フロアから天井までの全空間をアートや壁画で覆い、ユニークな視覚体験を作り出しました」

そう語るのは、現在キース・ヘリングのブランドライセンスの管理を担当しているデービッド・スタークさんだ。「彼は1インチの隙もなくフロアから天井までの全空間を包み込むように大量の作品を展示していました。まるでアートを浴びせかけるようにね。彼は独自の“言語”を生み出し、それを彼なりの方法で紹介しながら人と繋がっていっていた。大胆不敵でしたね」。そう「キース・ヘリング財団」の理事長を務めるギル・バスケスさんも続ける。

キース・ヘリング1stエキシビジョン

キースのスタジオはNOHOのブロードウェイ上にあり、今も当時の面影を残している。「本当に様々な人が訪れ、まるでグランドセントラル駅みたいでしたね。キースは必ず音楽を聴きながらここで制作に励んでいましたよ」とギルさん。

会場内では、スーツ姿のアートコレクターたちとともに、ストリート・キッズや学生のような様々なカルチャーを持ったキースの友人たちも共存していた。ギルさんはこうも語る。「当時はヒップホップがまだ新鮮で、クラブカルチャーも人気があったので、B-BOY、DJなどもたくさん集まっていました。彼らがアートコレクターたちと同じ空間にいるなんてことは、おそらくそのとき以前までは起こっていなかったでしょう。あのショーで重要だったことは、壁に何が飾ってあるかということよりも、誰が部屋にいるかということのほうでした。あの空間にあったのは、まさに“カルチャー”だったのです」

キース・ヘリング1stエキシビジョン
キース・ヘリング1stエキシビジョン

1982年、「トニー・シャフラジギャラリー」でのオープニング風景(上)と彼の代表的なモチーフである「Radiant Baby」のTシャツを着た会場でのキース本人(下)。壁中に惜しみなく展示された作品とクラウドのエネルギーが感じとれる。「キースは写真ではナードな感じに写っているものが多いけれど、実際に会うととてもカリスマがあってセレブなオーラが出ていたよ」とはデービッドさん。

好調なスタートを切り、その後も多くのファンを持つほどの人気者になり成功していたキースだったが、仲間のアーティストたちが高尚な美術館で展示をするというステップを歩む一方で、彼が取った方法は、「ギフトショップで商品を売る」ということだった。この既成のアーティストとしての成功への道とはまるで反対の方法を取ったキースは、アメリカの一流のアート界で認められるのに苦労した。

「それでも彼は自分がやっている活動の重要性をよくわかっていたと思います。アーティストがお店を持つことは当時異例でしたが、アンディ・ウォーホルも『最高のアートとはビジネスだ』とキースに話し、サポートしていました。キースはビジネスに夢中になっていて、マンハッタンのラファイエットストリートには『POPSHOP』というお店もありました。そこではTシャツやバッジを買うことができ、日本からファンが訪れたり、多種多様な人が集まるコミュニティができていました。ファンからサインを求められれば快く対応し、ただ名前を書くだけでなく小さなドローイングも書いてあげたりするほどキースは寛大な人でしたが、あのお店はそんな彼の寛大さを体現していた場所でもありました。高価なアートを買えなくても20ドルのTシャツと50セントのピンズは買えるよ、というようなね。『POPSHOP』以後のストリートウエアのお店はどれもこのお店をモデルにしていたと思います。この流れのパラダイムを作ったのは彼なのです」

そう語るデービッドさんは、キースはアートを一部の人のためだけのものとは思っておらず、いつもアートを民主化させたいと思っていて、みんなが触れられるものにしたいと思っていたよねと今でもギルさんとよく話すという。「確かに彼の活動はとにかく多岐に渡っていました。音楽をやってMTVに出たり、彼の『Free South Africa』のTシャツをウーピー・ゴールドバーグが着てテレビ番組に出たこともありましたね。人々とコミュニケートしたいという強い欲望があった彼は、社会的な不公平があればそれに苛立ち、すぐに立ち上がりもしました。彼が「SVA」在学中に考え学んでいたことは、ペインティングの技術的な方法ではなく、コミュニケーションの方法であり、独自の“視覚的な言語”を身に付けていたのです。彼はそれを使って、グリーンピースやニューヨークのエイズ問題、反核運動に携わったり、アート界が持つ限界を壊していきました。こうやってユニクロとやっているコラボレーションも、まさにアートの垣根を壊してもっと身近に感じてもらうようにする活動の一環です。キースのことや、この1982年の展示について知らなかった人もいるかと思いますが、このTシャツを通して彼を知ることになる人がいるといいなと思っています」

キース・ヘリング1stエキシビジョン

スタジオがあるビルに入ると壁に描かれたキースのドローイングが!5階のスタジオの入り口付近のドアには彼の苗字のHaringとHerring(ニシン)とを掛け合わしたユーモアあふれる写真が貼られていた。スタジオ内は広い制作スタジオスペースとオフィスがあり、彼の作品のみならず、幼少期の写真、過去のメディア記事のアーカイブ、彼の愛読書、よく履いていたスニーカーなどが保管されているのだ。壁に残るインクやペイント滲みは、キースがキャンバスを白壁に貼り付けて制作することが多かったためその際に移った筆跡である。

PROFILE

キース・ヘリング|1955年生まれ。言わずとしれたストリートアートの先駆者。’80年代にNYの地下鉄内にチョークで絵を描きはじめ注目を集める。31歳でエイズで亡くなるまで、アメリカ、シドニー、リオデジャネイロ、パリ、東京などの世界各国で精力的に制作活動を行った。

PROFILE

デービッド・スターク|ファインアートやファッションに特化した国際的なブランドライセンスおよびコンサルティング会社であるArtestar社の創設者兼社長。1989年よりキース・ヘリングの元で働き始め、彼が亡くなるまで彼の資産を管理してきた人でもある。

ギル・バスケス|「キース・ヘリング財団」の理事長でありDJ、プロデューサー。17歳でキースに出会ってから彼が亡くなるまでほぼ毎日兄弟のように常に行動をともにしていた。「アートの世界とは無縁だった僕の質問にキースはとてもナイスに我慢強く答えてくれていたよ」

© Keith Haring Foundation. Licensed by Artestar, New York.

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